社会科学入門2025後期14巨匠編(1)マックス・ウェーバー
これまでの流れ
実践編(1)論文作成のメソッド
野村一夫『社会学感覚』(文化書房博文社1992年/増補1998年)からマックス・ウェーバーに関する記述をコピー。
ここから。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
すでにふれてきたように、さまざまな社会的事実を人間の行為にまで還元してその主観的意味[動機]を探るべきだと提唱した代表的な社会学者がマックス・ウェーバーだった。「理解社会学」(verstehende Soziologie)と呼ばれるウェーバーの社会学構想については省略するとして、ここではかれの壮大な具体的事例研究を紹介してそれにかえよう。第二章で紹介した『宗教社会学論集』(全三巻)におさめられている「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」――通称「プロ倫」という――がそれである▼1。
(1)問題提起――ウェーバーが「プロ倫」を書きはじめた一九〇四年あたりの初発的な問題関心は、近代資本主義の根源の探究にあった。これはのちの一九一九年に『宗教社会学論集』のために改訂されるが、そのときウェーバーの問題関心は、近代資本主義だけでなくそれをふくむ西欧の壮大な合理化過程に拡大され、その人間的な起動力の解明を構想するものとなっていた。いずれにしても「プロ倫」であつかうテーマは明確である。すなわち「インド・中国・イスラムなど高い文明をもっていた文化圏がいくつもあったのに、なぜ西欧世界にのみ近代資本主義が成立したか?」である。
(2)資本主義と近代資本主義――ウェーバーによると資本主義は中国にもインドにもバビロンにも古典古代にも中世にも存在した。高利貸し・軍需品調達業者・徴税請負業者・大商人・大金融業者たちの「資本主義」である。しかし、これらと西ヨーロッパおよびアメリカの「近代資本主義」――より正確には「近代の合理的・経営的資本主義」――とは決定的に異なっていた。後者は簿記を土台として営まれる合理的な産業経営の上になりたつ利潤追求の営みであり、これは大量現象としては西欧近代にのみ発生したものだったのである。
(3)資本主義の精神――近代資本主義を推進させた原動力をウェーバーは「資本主義の精神」と呼ぶ。かれは論文改訂後「行為への実践的起動力」という意味で「エートス」ということばを使っている▼2。ウェーバーが「資本主義の精神」の典型的事例として掲げるのは有名なベンジャミン・フランクリンの処世訓、俗にいう「時は金なり」である。「時間は貨幣だ」「信用は貨幣だ」「貨幣は繁殖し子を生むものだ」といったことを忘れるなと説くフランクリンのことばの特徴は、「信用のできる立派な人という理想、とりわけ自分の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務だという思想」である▼3。そこで表明されているのが「資本主義のエートス」であるとウェーバーはいう。「『資本主義』は中国にも、インドにも、バビロンにも、また古代にも中世にも存在した。しかし、後に見るように、そうした『資本主義』にはいま述べたような独自のエートスが欠けていたのだ▼4。」このように、正当な利潤を天職として組織的かつ合理的に追求する信念にほかならない「資本主義の精神」が、たんに経営者だけでなく労働者にもひとしく分有されていることが近代資本主義の大前提なのだ▼5。「あたかも労働が絶対的な自己目的――《Beruf》「天職」――であるかのように励むという心情が一般に必要となるからだ。しかし、こうした心情は、決して、人間が生まれつきもっているものではない▼6。」というのも伝統主義的な生活態度であれば、人は習慣としてきた生活をつづけ、それに必要なものを手にいれることだけを願うにすぎない。この伝統主義を突破させたものはなにか。それをウェーバーは長年の宗教教育に求める。宗教といってもキリスト教全般ではない。宗教改革以降のプロテスタンティズムのそれである。
(4)禁欲的プロテスタンティズム――プロテスタンティズムは一六世紀ルターの宗教改革の影響で生まれ、西ヨーロッパおよびアメリカで盛んになった反カトリック教会の諸派のことである。聖書を徹底的に重視する点で、ローマ・カトリック教会およびロシア正教会と異なる。英語圏ではピューリタニズムとも呼ばれる。このプロテスタンティズムと「資本主義の精神」とをつなぐのは「禁欲」という概念である。だから、ウェーバーは正確には「禁欲的プロテスタンティズム」と呼ぶ。この禁欲的プロテスタンティズムの原点となっているのはカルヴィニズムの「恩恵による選びの教説」つまり予定説である。カルヴァンによるこのきわめてラディカルな思想によると、神は永遠の生命をあたえた人間をすでに選び、他の人間は永遠の死滅に予定したという。だれが永遠の生命に予定されているかは神のみぞ知る。しかも人間がそれを変えることは絶対不可能だと。これによって人びとは救済の道をいっさい絶たれることになる。聖書も助けえない、教会も助けえない、神さえも助けえない。「人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在する」と考えるこの悲壮な教説は、人びとを絶対的な孤独と不安へ陥らせた。ウェーバーは「個々人のかつてみない内面的孤独の感情」とこれを表現する▼7。
(5)天職――こうしてプロテスタントにとって自分が神から選ばれているか否かが最大の問題となったとき、かれらに残された道はたったひとつだった。まず「誰もが自分は選ばれているのだとあくまでも考えて、すべての疑惑を悪魔の誘惑として斥ける」つまり自己確信をもつこと。そして自己確信を獲得するために「絶え間ない職業労働」にいそしむことである。なぜ職業労働かというと、ルターが聖書翻訳のさい「天職」(Beruf)概念を導入して以来、プロテスタントにとって世俗の職業は神が各人に与えた使命であり、職業労働につとめることがイコール「神の栄光をます」こととされていたからだ。こうして切実な宗教的不安を解消しようとする強烈なエネルギーが職業労働に向けられることになった。
(6)世俗内禁欲――もうけることが目的ではなく、ひたすら神の意志に合わせてみずからを職業人=天職人として自己形成する行為としての職業労働を中心とした生活。欲望や快楽や気まぐれや怠惰にしたがう自然のままの生活ではこれは実現できない。禁欲的に日常の生活をすみずみまでコントロールしなければならない。こうして、かつてはカトリックの修道院のなかでのみなされていた禁欲的生活が、今度は世俗内でおこなわれるようになった。これを「世俗内禁欲」という。「来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだったのだ▼8。」
(7)近代資本主義――世俗内禁欲にもとづく積極的かつ合理的な職業活動は、皮肉にも小商品生産者を結果的にもうけさせることになった。なぜなら、かれらは利益の少ない一定の低価格で良い商品を規則正しく販売し正直な取引をしたからだ。これがおなじみの顧客をつかむことになったのだ。こうしてえられた富は天職の結果なのだから神の恩恵として認められた。しかし、かれらは貴族的消費を嫌悪していたから、この富は必然的に投資に向けられることになる。こうして期せずして資本が形成され、合理的産業経営の機構組織がつくりあげられた。このあたりのメンタリティが「資本主義の精神」にほかならない。資本主義の離陸もここからはじまる。ところが、ひとたび資本が形成され、合理的機構がつくられると、今度はそれらが利潤を要求し、合理的な経営をしなければならなくなってくる。それまで内面的な宗教倫理によってなされてきたことが、「資本主義の精神」を経て、やがて経済的強制にとってかわる。こうしてわたしたちのよく知っている鋼鉄のような近代資本主義となる。ウェーバーは最後につぎのようにのべている。「ピュウリタンは天職人たらんと欲した――われわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界[コスモス]を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人――直接経済的営利にたずさわる人びとだけでなく――の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう▼9。」
理念と利害
以上のようなウェーバーの説はきわめてセンセーショナルなもので、当時大論争を呼び起こした。その理由は大きくわけてふたつあった。ひとつはその逆説性だ。一般の常識では、まず「もうけたい」という営利本能があって、そこから活発な職業活動をへて資本形成にいたると考える。ところが、ウェーバーの理論はその逆をいく。もうけることを罪悪として嫌っていたもっとも禁欲的な人びとが宗教的な動機から職業労働に励むことで資本形成への道を歩みだし、結果的に経済的合理主義を生みだしたというのだから。これは当時の常識に対してかなり意表をついていた。
第二に史的唯物論との対決という論点があった。ウェーバーは史的唯物論の基本的な考え方――「存在が意識を規定する」つまり物質的利害=経済がいっさいの歴史を左右する――をある程度は認めつつも、その限界点をつく。それは理念の果たす歴史的役割の重要性についてである。この点を明確にのべた有名なフレーズを紹介しておこう。「人間の行為を直接に支配するものは、利害(物質的ならびに観念的な)であって理念ではない。しかし、『理念』によってつくりだされた『世界像』は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミズムが人間の行為を押し進めてきたのである▼10。」「転轍手」とは線路のポイント切り替え装置のことだ。つまり、理念という転轍手が、人間の行為という列車の進む方向を決める役割を果たすことがあるというわけだ。「プロ倫」はまさにその一事例なのである。
しかし、かといって「資本主義の精神」が宗教改革の一定の影響の結末としてのみ発生しえたとか、また、経済制度としての資本主義はもっぱら宗教改革の産物だなどと主張しているわけではない▼11。かれ自身があちこちで強調しているように、「プロ倫」で提示したのは複合的な因果連鎖のひとくさりにすぎない。
方法としての「理解」
主観的な〈意味の世界〉がまさにブレイクスルー[突破]となるプロセスをスリリングにえがいた「プロ倫」は、人間の意味世界の探求を媒介に歴史的社会の潮流を探る画期的な研究だった。この点で「プロ倫」が理解社会学の具体的展開事例であることを再度確認しておきたい。
結局社会現象が自然現象とちがうところは、人間の主観的意味に深く規定されていることである。たとえば台風の進路のような自然現象は、外的に観察できるさまざまな気象条件から解明されるにとどまる。それに対して、社会現象の方は外的観察に加えて、行為者の主観的意味を理解することによってより因果関係が明瞭に説明できる可能性がうまれる。その意味で「理解」の方法は社会学にとって独自の分析装置となるものである▼12。
そのさい、主観的意味は単独に存在するものではなく、広い社会的文脈に位置づけられなければならない。これを「意味連関」という。理解社会学では意味連関を知的に理解することが〈説明〉になる。「プロ倫」でいえば「自分は天国に行けるかどうか」という禁欲的プロテスタントたちの孤独な不安が「主観的意味」にあたり、そういう心理を導いた天職観念などがさしあたりの「意味連関」に相当する。また世俗内での禁欲的生活という行為は、中世キリスト教の修道院制度における世俗外禁欲にその淵源をもち、その源泉はさらに古代ユダヤ教の預言にまでさかのぼりうる。こうした歴史的な意味連関をたどらなければ、その主観的意味は十分説明できないというわけである。
以上のかんたんな紹介からも、理解社会学がたんなる心理学ではないことがわかると思う。生理的本能や身体的環境を絶対視してその関数としてしか人間の心理をみようとしない非歴史的な心理学主義への傾斜の誘惑はたえず存在するけれども、これに抗することが理解社会学に課せられたもうひとつの使命でもある。
組織におかれた人間の行動は、管理者によって定められた規則に準拠したリジッドな役割行動となる。それは一種の非人格性を帯びる。近代組織特有のこの組織原理を今世紀初めにウェーバーは「官僚制的支配」と名づけた。それはもっとも合理的で計算可能性の高い能率的な〈支配〉である。〈支配〉といっても人びとを暴力的に屈服させることではない。それはなんらかの形で人びとの自発的服従がえられるチャンス[可能性]をさしている。つまり組織における役割行動とは一種の〈自発的服従〉なのである。近代組織の構造原理としてのビューロクラシーを〈支配〉の一形式とみたところにウェーバーの感覚の鋭敏さがあった▼4。
このような〈自発的服従〉がもっとも典型的に経験されるのは病院や学校のような〈施設〉である。とりわけ、監獄や入院病棟や老人ホームなど個人の生活を丸がかえでつつみこんでしまうような施設である。社会学ではこれを「全制的施設」(total institution)と呼んでいる▼5。このような施設に収容された者は、それまでのアイデンティティを根こそぎ剥ぎとられ全面的に管理される。「囚人らしさ」「患者らしさ」「老人らしさ」――押しつけがましい役割が個人を拘束する。それに対して個人は抵抗を試み、多くの者がやがて〈自発的服従〉にいたる。そして忘れてならないのは、管理する側もまた管理者として強く拘束されていることだ▼6。
極端な全制的施設とまでいかなくても、工場や学校や企業でも、組織には大なり小なり〈管理〉対〈自律〉の構図があらわれるものだ。組織には、協働してなにかを成し遂げるという側面とともに、他方で一部の人びとが他の人びとを支配するという側面をもっている。組織は人と人とをつなげる構造原理である。本来の主役はあくまで人間である。しかし、ひとたび組織が立ち上がると、今度は人がワキにまわることになる。人間とお金の関係のように、主体と媒介の関係が転倒してあらわれてくるわけである。すでに説明したように、これを「物象化」という▼7。
高度の物象化水準にある組織の場合、主体はもはや人間ではない。主体は物神化した組織形態すなわち〈法人〉であり、人びとは〈規律〉という匿名の支配代理人に〈自発的服従〉を強いられる。子どもは学校に、労働者は工場と企業に、病人は病院に、障害者は施設に、エリートは官庁に――あたかも社会全体がテーラー・システムを採用したひとつの工場であるかのように、人間が選別され、ふりわけられ、組織の断片としてそれぞれの生を生きる。
冒頭の大病院の外来にみられるように、そこで働く看護婦が組織の〈規律〉――たとえばテキパキと業務をこなし効率的に患者を誘導するといった組織の期待――に忠実であろうとすればするほど、〈規律〉の外部にいる老女とコミュニケートできなくなってしまう。それはまさに、ゆたかなコミュニケーションの世界がシステムの論理によって侵食されつつある光景なのである▼8。
ウェーバーはビューロクラシーの進行に悲観的だった。「ひとたび完全に実現されると、官僚制は最も打ち壊し難い社会組織の一つになる」とかれはみていた▼9。すでにふれた「意味喪失」である▼10。有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」論文の最後で、かれはつぎのことばを引いて警告している。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう▼11。」この警告は、抵抗を忘れた組織人の安住する現在の組織社会にじつによくあてはまる。
まず、宗教現象のもっとも原初的な核にあたるもの、つまり宗教の原点はなにかについて宗教社会学の理論をみていくことにしよう。これについては、ふたりの社会学の巨匠の理論が代表的である。ひとりはマックス・ウェーバー、もうひとりはエミール・デュルケムである。ウェーバーは「カリスマ」に、デュルケムは「聖なるもの」に、宗教心の根拠を求めている。
ウェーバーは、呪術師が雨を降らしたり病気をなおしたりする能力のような、特別な「非日常的」能力のことを「カリスマ」(charisma )と呼ぶ▼1。
ウェーバーのカリスマ概念を要素ごとにまとめると――
(1)カリスマとは、ある人物に宿っているとみなされる非日常的な資質である。
(2)この資質は、超自然的・超人間的・非日常的な、人並はずれた特殊な力として発揮される[奇跡や忘我状態]ので、その人物は「仰ぐべき優れた指導者」として帰依者たちから評価される。
(3)その資質が客観的に存在するかはさしあたって問題ではない。ひとえに帰依者や弟子たちがどう評価するか、つまり帰依者の承認しだいである。[カリスマは社会的承認であり、その意味で社会現象である。]
(4)したがってカリスマ的指導者は、たえずカリスマ性を証明しつづけなければならない。[預言などの証し]
(5)カリスマヘの帰依は、その非日常的な力に向けられているため、しばしば革命的・変革的・創造的である。[革命のエネルギー]
(6)カリスマ的支配は、後継者問題などの後、伝統化されるか、合法化される。[カリスマの日常化]
カリスマということばそのものは、もともとキリスト教神学で使われていたことばだが、ウェーバーはそれを拡大して――つまりキリスト教以外の宗教にもあてはまる現象として――概念化した。現在では、教祖や宗教的指導者に対して使われるだけでなく、政治家や社会運動の指導者、果てはロックミュージシャンにまで拡大解釈されているが、本来は「非日常的な資質を承認された者」だけがカリスマと呼ばれるべきである。
というのは、現実に体験するさまざまな苦難をどう意味づけるか、またそこから救済されるにはどうしたらいいのか、救済された状態とはどういう状態なのか――これらを合理的に説明するのが宗教の世界像なのである。なぜ自分は幸福なのかを説明し、幸福であることを正当化してくれる論理を「幸福の神義論」(Theodizee des Gluckes)といい、なぜ現世において信仰者がいわれなき苦難にあい、逆に不信心者が幸福を享受するのかを合理的に説明してくれる論理を「苦難の神義論」(Theodizee des Leidens)という。いずれにせよ〈知の合理化〉によって構築され宗教的世界像は〈転轍手〉として人間の行為を方向づける▼6。
ただ、宗教は別の観点からみれば非合理的である。というのは、宗教行為は基本的に「価値合理的行為」だからである。価値合理的行為とは「予想される結果を顧慮することなく、義務、品位、美、宗教的使命、敬虔……(中略)への確信にしたがって行為する」ことである▼7。ところが「目的合理性の観点からすれば、価値合理性はつねに非合理的であり、しかも、それが行為の向かう価値を絶対的な価値に高めれば高めるほど、ますます非合理的となる▼8。」目的合理性を重視する近代の社会において、価値合理的行為は非合理的なことにみえるというわけだ。
ウェーバーはつぎのようにのべている。「世界像および生活様式の理論的かつ実践的な、また知的かつ事実的な全面的合理化という近代的な形態は、次のような一般的な帰結をもたらした。すなわち、この独自な合理化の過程が進展するにつれて、宗教はそのために、ますます――世界像の形成という観点からみて――非合理的なもののなかに押しこめられていったということである▼9。」このように、宗教の〈合理-非合理〉は歴史社会学的視点からみてはじめて明晰にとらえることができる。
音楽はあらゆる時代・あらゆる民族において発展した普遍的な営為だ。しかし、音楽に関して近代西欧においてのみ生じた特殊なことがある。それは独特の〈合理化〉である。
ウェーバーは『宗教社会学論集』の有名な「序言」のなかで、つぎのように問うている。要約すると「なぜヨーロッパ以外の地では、科学・芸術・国家・経済の発展が、西欧に特有の合理化の道をたどらなかったのか」-この「西欧に特有の合理化」のことをウェーバーが「呪術からの解放」とも呼んでいたことは前章でもふれた。ウェーバーは、この西欧に特有な合理化」の結果生まれたものとして、つぎのようなものをあげている▼2。
経済における資本主義的企業――形式的に自由な労働・合理的経営形態・家政と経営の分離・合理的な簿記
行政における官僚制組織
国家における議会制度・憲法・合理的法体系
学問における近代自然科学――数学的な表現と基礎づけ・実験による検証・組織的研究の場としての大学
芸術における市場向け生産物――文学出版物・雑誌・新聞・劇場・美術館
絵画における遠近法
音楽における和声音楽[対位法・和音和声法]
以上の諸現象は今日わたしたちにとって自明な――それゆえ普遍的にみえる――ものばかりだが、じつはいずれも近代西欧にのみ発生した、歴史的にみてきわめて特殊な現象なのである。そこには独特の〈合理化〉が一様にみられた。
西欧音楽の合理化
晩年のウェーバーの関心は、西欧近代社会がたどった合理化過程に集中しており、かれの未完の草稿「音楽の合理的社会学的基礎」(通称「音楽社会学」)もその視点につらぬかれている▼3。
さしあたりウェーバーの関心は西欧音楽独自の音組織にあった。具体的には、合理的和声と調性である。和声音楽はトニック・ドミナント・サブドミナントの三つの三和音の組み合わせによって構成される。これは近代西欧音楽独特のものである。これを可能にするのはオクターブ空間の均質的な構成である。つまり十二平均律である。これがあってはじめて自在な転調が可能になり、和声音楽の表現力は飛躍的に高まる。ところが、じつは自然に聞こえる和音にもとづいて調律すると、オクターブがあわないのである。音響物理学ではこれを「ピュタゴラス・コンマの問題」と呼ぶ。このさい近代西欧音楽は聴覚上の調和よりも十二音の間隔の均一化を選択する。つまり、よく響くが音楽的ダイナミズムに欠ける純正律ではなく、聴覚上若干の不協和があるが自在な音楽表現を保証する平均律を選ぶのである。J・S・バッハの「平均律クラヴィーア集」(第一集)は、その転換点を刻印する作品だった。
以上の西欧独特の音組織は、他のさまざまな要素と連動していた。第一にあげなければならないのは記譜法の成立である。西欧以外の伝統的音楽はいずれも精密な楽譜を発達させなかった。五線符に音楽をく書く記譜法は、もっぱら〈演奏する〉活動だった音楽を「書く芸術」に変化させた。ここではじめて作曲家と演奏家が分離し、〈音楽を書く人〉としての「作曲家」が誕生することになる。第二に、楽器とくにピアノにいたる鍵盤楽器の発達が関係する。鍵盤楽器が他の諸楽器と異なるのは、調律を固定しなければならないことである。とりわけピアノは純正律から平均律への転換に大きな役割を果たした。
もちろん、宗教をはじめとするあらゆる文化現象がそうであるように、音楽現象も、非合理的で神秘的な性質をもつ。じっさい、いわゆる民族音楽としてわたしたちが知っている多様な音楽のほとんどは、もともと非合理的で神秘的な性質をもっている。しかし、近代西欧音楽は、しだいに非合理性と神秘性を溶解させ、独特の合理化を果たすのである。ウェーバーの歴史社会学は、その合理化が、ひとり音楽のみならずあらゆる社会領域において浸透していった壮大な潮流のひとつの支流であることを教えてくれる。
このアイデアを豊富な歴史的事例に適用し、膨大な支配社会学をつくりあげたのがウェーバーである。まず、有名なウェーバーの定義をみておこう。
「支配(Herrschaft)とは、一定の内容をもつ命令に一定の人々が服従するチャンスのことをいうべきである▼4。」
この場合も服従者の「服従意欲」が重要視されている。つまり、ある支配形態を人びとが正当なものとして納得して受け入れてはじめてその支配形態は安定する。逆に、人びとがそれを正当なものだと感じなくなるようであれば、それは長続きすることはない。だから支配ということが成り立つのは、原則的には、支配される人たちが、支配されることを承認する場合だけである。
では、人びとはどういう場合に、その支配形態を正当なものとして承認し服従するのだろうか。
それをウェーバーは「支配の正当性[根拠]」と呼び、歴史的にほぼ三つのタイプが存在するとのべている▼5。
(1)非人格的で合理的規則にもとづく「合法的支配」そのもっとも純粋な形としての「官僚制」――人びとはその合法的な地位ゆえに服従し、行政幹部は法的な権限をもつ。
(2)伝統の神聖さにもとづく「伝統的支配」――人びとはその伝統的な権威ゆえに服従し、行政幹部は特権をもつ。
(3)個人の非日常的資質にもとづく「カリスマ的支配」――人びとはその個人的な資質ゆえに服従し、行政幹部は使命をもつ。
こういう類型を「理念型」ということはすでにのべた▼6。一種のモデルのようなものだ。現実の歴史的支配形態は、これらの複合体として考察できる。歴史上多いパターンは「カリスマから伝統」「カリスマから合法」であり、近代西欧では、もっぱら合法的支配に向かっていった。これも合理化である。
いずれにせよ、カリスマ的支配が支配の原型であるとウェーバーは考えた。というのは、そこではなんの強制力もなく人びとはみずからの意志で自発的に服従しているからだ。これが支配の原型である。
この支配という関係は、なにも国家にかぎるわけではない。集団や村落、政党や宗教団体そして学校など、あらゆる社会関係にみられる。現代国家は当然「合法的支配」であり、人びとは手続き上の正しさに対して服従し、納税などの義務を果たすのだ。これは現代の企業や学校にもいえることである。一方、ワンマン的なヴェンチャー企業や宗教団体そして一部の政治団体などには、カリスマ的支配とみられるものもある。カリスマは潜在的に社会変革的機能をもつから、体制側の支配者から脅威とみなされ、しばしば理由もなく排除の対象となることも多い。
自発的服従
いずれにしても、支配についてジンメルとウェーバーがともに強調するのが「服従者の服従意欲」である。支配というのは服従のチャンス[可能性]である。服従には理由がなくてはならない。正当な根拠があって、それを認める人びとが支配という関係に入るわけである。
わたしたちは「支配」とか「上下関係」とかいうと、つい「暴力」とか「強制」といったことばを連想してしまうが、社会学的には別のことがらである。「支配」や「上下関係」が、暴力や強制をともなう一方的な関係であるという「常識的な」考え方に対して、大方の社会学者は否定的である▼7。ともあれ、したがう方にある程度の自由がなければ支配関係は成立しないのだ。服従者の自由度がある程度高くなければ、社会学的な意味での支配は成立しない。その意味で、社会学は「右」でもなければ「左」でもない。「右」も「左」も「上」にこだわっている。社会学は胸を張って「下だ」と答えよう。
さて、納得=合意の仕方として「カリスマ的」「合法的」「伝統的」の三つがあるとしても、しかし、支配が成立するのは、現実には真の合意にもとづいた場合だけとはかぎらないはずである。じっさい、なんらかの操作がなされることによって、あたかも合意が成立したかのような状態になる場合も多い。要するに、相手をだまして服従させるわけだ。「世論操作」などと呼ばれるケースがこれである。現代社会における権力を考える上で、じつはこの点はたいへん重要である。節をあらためて論じることにしよう。
犯罪的暴力は正当性をもたないが、正当性をもつ合法的な暴力も存在する。それは国家の暴力――ここでは国家的暴力と呼ぶことにする――である。
そもそも国家が合法的な暴力を所有しているというよりも、むしろ正当化された暴力を所有している組織体を国家と呼んでいるのである。これについてはマックス・ウェーバーによる明晰な国家定義がある。ウェーバーは一九一九年に出版された講演『職業としての政治』のなかで、国家についてつぎのようにのべている。「国家とは、ある一定の領域の内部で――この『領域』という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である▼6。」だから、個人や集団は、国家の側で許された範囲内でしか、物理的暴力行使の権利が認められない。これは近代的な現象である。かつては、さまざまな集団――氏族――が、物理的暴力をまったくノーマルな手段として使用していたのだから。
この「国家によって独占された正当な物理的暴力」とは、具体的にはどういうものをさすのか。代表的なものは、つぎの三つである。
(1)戦争
(2)警察
(3)死刑
野村先生、かしこまりました。先の構成を維持しつつ、『社会学感覚』の本文から詳細な記述、具体的な例示、重要な引用を大幅に補強し、情報量を充実させた講義用レジュメを作成いたしました。
マックス・ウェーバーの社会学:講義用レジュメ(詳細版)
Based on: 野村一夫『社会学感覚』(文化書房博文社1992/98)
1. マックス・ウェーバーの「理解社会学」の構想
ウェーバー社会学の根幹には、社会的事実を、それを担う個人の**「行為」にまで還元し、その行為者が抱く「主観的意味(動機)」**を探るべきだという方法論的個人主義の立場がある。
(1)方法としての「理解」(Verstehen)
自然現象と社会現象の違い:
自然現象(例:台風の進路)は、気圧配置などの外的な気象条件を観察・測定することで因果関係が説明される。
社会現象は、外面的な観察に加え、行為者の内面にある「主観的意味」を理解することによって初めて、より明瞭な因果関係の説明(説明的理解)が可能となる。
「理解」は社会学独自の分析装置である。
(2)意味連関(Sinnzusammenhang)
行為者の主観的意味は、単独で孤立して存在するものではない。常に、より広い社会的・歴史的な文脈の中に位置づけられている。
この「意味のつながり」を**「意味連関」**と呼ぶ。理解社会学では、この意味連関を知的にたどることが現象の〈説明〉となる。
『プロ倫』の例: 禁欲的プロテスタントたちの「自分は天国に行けるか」という孤独な不安が直接の「主観的意味」であり、そのような心理を導いた「予定説」や「天職観念」といった教義の体系が背景にある「意味連関」にあたる。
(3)非歴史的な「心理学主義」への抗い
理解社会学は、単なる心理学ではない。
生理的本能や身体的環境を絶対視し、人間の心理をそれらの関数としてのみ捉えようとする非歴史的な心理学主義への誘惑に抗い、歴史的・社会的な文脈における意味を問うことが使命である。
2. 具体的事例研究:『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
「理解社会学」の壮大な具体的事例研究。主観的な〈意味の世界〉が歴史を動かすブレイクスルー(突破口)となるプロセスを描く。
(1)問題提起の変遷と核心
1904年(初出時)の関心: 近代資本主義の根源の探究。
1919年(改訂時)の関心: 近代資本主義を含む、西欧文明全体の壮大な**「合理化過程」**の人間的な起動力の解明へと拡大。
核心的な問い: 「インド・中国・イスラムなど高度な文明圏があったにもかかわらず、なぜ西欧世界にのみ、自由な労働の合理的組織化に基づく**『近代資本主義』**が成立したのか?」
(2)「資本主義」と「近代資本主義」の峻別
ウェーバーは、あらゆる時代・地域に存在した「資本主義」と、西欧近代に特有の「近代資本主義」を明確に区別する。
伝統的資本主義: 高利貸し、軍需品調達業者、徴税請負業者、大商人、冒険的金融業者など。中国、インド、バビロン、古代、中世にも存在した営利活動。
近代資本主義(合理的・経営的資本主義):
簿記を土台として営まれる合理的な産業経営。
形式的に自由な労働の利用。
家政と経営の分離。
これらは「大量現象としては西欧近代にのみ発生したもの」である。
(3)資本主義の精神(エートス)
近代資本主義を推進させた原動力は、単なる営利欲ではなく、独自の「精神」=**エートス(行為への実践的起動力)**であった。
ベンジャミン・フランクリンの処世訓:
「時は金なり」「信用は貨幣だ」「貨幣は繁殖し子を生むものだ」
ここにあるのは、単なる処世術ではなく、「自分の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務だという思想」である。
伝統主義の突破:
人間は本来、習慣的な生活を続け、必要なものを手に入れれば満足する(伝統主義)。「より多く儲けたい」とは自然には思わない。
この伝統主義を突破し、労働自体を絶対的な自己目的(天職)とみなす心情を植え付けたのが、長年にわたる宗教教育であった。
(4)禁欲的プロテスタンティズムと予定説
「資本主義の精神」と宗教改革以降のプロテスタンティズムをつなぐのは**「禁欲」**という概念である。
カルヴィニズムの予定説(恩恵による選びの教説):
きわめてラディカルな思想:神は永遠の生命を与える人間と、永遠の死滅に予定した人間を、天地創造の前から決定している。
誰が救われるかは神のみぞ知る(絶対的な神の主権)。人間がそれを変えることは不可能。教会も、秘跡も、神自身さえも助けられない。
**「神のために人間が存在する」**という悲壮な教説は、人びとを「かつてみない内面的孤独の感情」と絶対的な不安へ陥れた。
(5)天職(Beruf)と救済の確信
救済の道が閉ざされた信徒たちに残された唯一の道は、不安を解消するための**「自己確信」**の獲得であった。
自己確信への道:
「自分は選ばれているのだ」とあくまでも考えて、疑惑を悪魔の誘惑として退けること。
その確信を得るために、**「絶え間ない職業労働」**にいそしむこと。
「天職」概念の変容:
ルターが導入した「天職(Beruf)」は、世俗の職業を神から与えられた使命とみなした。
カルヴィニズムにおいて、職業労働に励むことは「神の栄光を増す」ことであり、救われていることの証し(認識根拠)となった。強烈な宗教的不安のエネルギーが、職業労働へと集中投下された。
(6)世俗内禁欲の誕生
かつてカトリックの修道院の中でのみなされていた禁欲的生活が、世俗の職業生活のただ中に移された。
欲望、快楽、怠惰といった自然のままの生活を否定し、生活の隅々までを神の意志に合わせて合理的にコントロールする**「世俗内禁欲」**が誕生した。
「来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化」こそが、天職観念の産物であった。
(7)逆説的な結末:「鉄の檻」へ
宗教的な動機に基づく行為が、意図せざる経済的結果をもたらした。
資本形成のメカニズム:
禁欲的労働は、結果的に生産性を高めた。また、正直な取引と安定的価格は、確実な顧客をもたらした(小商品生産者の成功)。
得られた富は「神の恩恵」だが、貴族的・享楽的な消費は罪である。
消費されなかった富は、必然的に事業への再投資に向けられ、期せずして**「資本の形成」**が進んだ。
宗教精神の蒸発と「鉄の檻」:
ひとたび合理的な産業経営の機構(資本主義システム)が確立されると、システム自体が利潤と合理化を強制し始める。
もはや宗教的支柱は不要となり、エートスは経済的強制力へと取って代わられる。
ウェーバーの警告:ピューリタンは「天職人たらんと欲した」が、我々は「天職人たらざるをえない」。かつての精神の抜け殻であるこの巨大な近代的経済秩序は、化石燃料が燃え尽きるまで我々を閉じ込める**「鉄の檻(鋼鉄のような外殻)」**となるかもしれない。
3. ウェーバー社会学の理論的射程:理念と利害
(1)常識と唯物論への挑戦
『プロ倫』は、二つの点で当時の常識に挑戦するセンセーショナルなものであった。
逆説性: 「営利本能→資本主義」という常識に対し、「もうけを卑しいとする禁欲的な宗教的動機が、結果として最強の資本主義を生み出した」という逆説を提示した。
史的唯物論との対決: 「存在が意識を規定する」(経済が歴史を左右する)という史的唯物論の限界を指摘し、**「理念」**の果たす歴史的役割を強調した。
(2)「転轍手」としての理念
ウェーバーは、利害と理念の関係を以下のように定式化した。
「人間の行為を直接に支配するものは、利害(物質的ならびに観念的な)であって理念ではない。しかし、『理念』によってつくりだされた『世界像』は、きわめてしばしば**転轍手(ポイント切り替え装置)**として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミズムが人間の行為を押し進めてきたのである。」
行為のエンジンは「利害」だが、その進む方向(軌道)を決定するのは宗教的・思想的な「理念」が提示する世界像である。
(3)複合的な因果連鎖
ウェーバーは、「資本主義は宗教改革の産物だ」と単純に主張したわけではない。
『プロ倫』で提示したのは、歴史の巨大な複合的な因果連鎖の「ひとくさり」にすぎない。経済が宗教に与える影響(唯物論的側面)も、他の箇所では認めている。
教訓:「経済現象も経済だけから説明することはできない」。物事は総合的に捉える必要がある。
4. 西欧独自の「合理化」と「意味喪失」の問題
晩年のウェーバーの関心は、西欧近代社会がたどった特殊な「合理化」過程に集中した。
(1)多領域における合理化の進展
『宗教社会学論集』の「序言」で、ウェーバーは「なぜヨーロッパ以外の地では、科学・芸術・国家・経済が、西欧に特有の合理化の道をたどらなかったのか」と問うた。これは「呪術からの解放(脱魔術化)」の過程でもある。
経済: 資本主義的企業、合理的経営、複式簿記。
行政: 官僚制組織。
国家: 議会制度、憲法、制定法による合理的法体系。
学問: 数学的基礎づけと実験による検証を伴う近代自然科学。大学という組織的研究の場。
芸術: 絵画における遠近法。音楽における和声法。市場向け生産物(出版、劇場)。
(2)事例:西欧音楽の合理化
未完の草稿「音楽社会学」に見る、非合理性の溶解としての合理化。
合理的な音組織:
西欧近代音楽は、和声音楽(トニック、ドミナント、サブドミナントの三和音構成)を特徴とする。
これを可能にしたのが、オクターブ空間を均質に分割する**「十二平均律」**である。
ピュタゴラス・コンマの問題と選択:
自然に響く純正律で調律するとオクターブが合わない(ピュタゴラス・コンマ)。
西欧音楽は、聴覚上の完全な調和(純正律)よりも、若干の不協和を含みつつも自在な転調と表現力を保証する、計算可能な「平均律」を選択した。(例:バッハ『平均律クラヴィーア曲集』)
技術的・制度的要因:
記譜法: 精密な五線譜の成立により、音楽は「演奏する活動」から「書く芸術」へと変化。作曲家と演奏家が分離した。
鍵盤楽器: 調律の固定を要するピアノなどの発達が、平均律への転換を決定づけた。
(3)合理化の帰結:「意味喪失」と文化の悲劇
ジンメルの「客観的精神の主観的精神に対する勝利」という洞察を受け継ぎ、合理化のペシミスティックな側面を強調した。
科学における意味の喪失:
近代科学は著しい発達を遂げたが、「我々は何をなすべきか、いかに生きるべきか」というトルストイ的な問いには一切答えない。
(例:近代医学は生命維持の技術を提供するが、延命の意義や死の意味は問わない)
文化の悲劇と「末人」:
人間が創り出した文化(制度、組織、技術)が、自然的生活から離陸し、自律的な法則を持って人間を支配し返す(物象化)。
この発展の最後に現れる人間類型(末人 letze Menschen)への予言:
「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう。」
5. 支配の社会学とビューロクラシー(官僚制)
近代組織を形作る原理であるビューロクラシーを、最も合理的な〈支配〉の一形式として分析した。
(1)支配の定義と正当性
支配(Herrschaft)の定義: 「一定の内容をもつ命令に一定の人々が服従するチャンス(可能性)」。
自発的服従の重要性: 支配が安定的に成立するためには、暴力的な強制だけでなく、被支配者がその支配を「正当なもの」として承認し、受け入れる**「服従意欲」**が不可欠である。
(2)正当的支配の三類型(理念型)
人々が支配を正当だとみなす根拠による分類。現実の支配はこれらの複合体である。
合法的支配:
制定された規則の合法性と、規則に基づく命令権の正当性への信仰に基づく。(例:現代の国家、企業)
その最も純粋な形態が**「官僚制」**である。
伝統的支配:
古くから通用している伝統の神聖さと、その伝統によって権威を与えられた者の正当性への信仰に基づく。(例:家父長制、封建制)
カリスマ的支配:
特定の人物の非日常的な資質(神聖性、英雄性、模範性)への個格的な帰依に基づく。(例:預言者、軍事的英雄、デマゴーグ)
自発性が最も強いため、ウェーバーはこれを「支配の原型」と考えた。
(3)ビューロクラシーの特質と逆機能
合法的支配の典型としての官僚制組織の特徴。
原則:
非人格性(即物性): 個人的感情や情緒を排除し、規則に従って事務を処理する。愛も憎しみもない、計算可能な世界。
専門人: 専門的な訓練を受け、試験によって採用された資格ある専門家が職務を担う。
規則・文書主義: 明文化された規則と手続きに基づき、すべての処理は文書に記録される。
物象化と「鉄の檻」:
本来は人間が目的を達成するための手段であった組織が、自己目的化し、人間を管理する主体となる(物象化)。
組織の規律が、人間同士の豊かなコミュニケーションを侵食する。(例:大病院における看護師のジレンマ)
ウェーバーの悲観的展望:「ひとたび完全に実現されると、官僚制は最も打ち壊し難い社会組織の一つになる」。
(4)国家と暴力
ウェーバーによる、物理的暴力の観点からの国家定義。
定義: 「国家とは、ある一定の領域の内部で――この『領域』という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。」
近代国家は、かつて氏族などが持っていた暴力行使の権利を剥奪し、独占した。
正当な暴力の具体例:戦争、警察権の行使、死刑。
6. 宗教社会学の視座:カリスマと神義論
(1)宗教の原点としてのカリスマ
デュルケムが「聖なるもの」に宗教の根拠を求めたのに対し、ウェーバーは「カリスマ」に注目した。
カリスマ(charisma)の定義: ある人物に宿っているとみなされる、超自然的・超人間的な**「非日常的」資質**。
社会的承認(帰依): 資質が客観的に存在するかどうかではなく、帰依者(弟子、信徒)がそれを承認し、優れた指導者として仰ぐかどうかが決定的に重要である。
証明の必要性: カリスマ的指導者は、奇跡や預言の成就によって、絶えず自らの資質を証明し続けなければならない。
革命的パワーと「日常化」:
カリスマは既成の秩序(伝統)を破る、革命的・変革的なエネルギーを持つ(「世直し」の機能)。
しかし、指導者の死後や時間の経過とともに、カリスマ的支配は伝統化するか合法化され、**「日常化」**していく。
(2)知の合理化としての宗教と「神義論」
ウェーバー流の視点では、宗教は基本的に、世界の不条理を説明するための**〈知の合理化〉**の体系である。
世界像の構築: 宗教は、現実に体験する苦難や幸福を合理的に意味づけ、救済への道を指し示す「世界像」を提供する。
神義論(Theodizee): 神の正義を弁護するための論理。
幸福の神義論: なぜ自分は幸福なのかを正当化する論理。(例:「信仰深い者が祝福される」)
苦難の神義論: なぜ現世において正しい者がいわれなき苦難にあい、不信心者が栄えるのかを合理的に説明する論理。(例:カルヴィニズムの予定説、インドのカルマ思想)
これら宗教的「世界像」が、歴史の転轍手として機能した。
(3)価値合理的行為と宗教の非合理化
価値合理的行為: 結果を度外視して、倫理的、美的、宗教的な独自の絶対的価値への信念に従って行動すること。宗教的行為の基本形。
近代におけるパラドックス:
目的と手段の計算に基づく「目的合理性」が支配的な近代社会の観点から見ると、純粋な価値合理的行為は、極めて「非合理」なものに見える。
世界の全面的合理化が進むにつれ、宗教はますます非合理的な領域へと押し込められていくという逆説が生じた。
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