こころとからだのリテラシー(身体文化論)2025前期07こころ編(5)自我論(わたくしという社会現象)

第7回 こころ編(5)自我論(わたくしという社会現象)

社会学感覚・第2部 人間論を中心に(ソキウスに収容)

アニメ「銀河鉄道の夜」(ますむらひろし原画・細野晴臣音楽)エンディング
https://youtu.be/fiH_snjx0dU?si=Bamau2UBMyeSBEfK&t=6225

『春と修羅』(1924)序詩に学ぶ

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)


「わたくし」を自我あるいは自己とすると
(1)自我は自明な実体ではなく現象である。「電燈」ではなく「照明」。しかも「(ひかりはたもちその電燈は失はれ)」とまで念を入れている。「透明な幽霊」。

(2)自我は偶発的である。非常にあやういもの。「仮定された」とか「いかにもたしかにともりつづける」。これは自分が自分でありつづけることがいかに偶発的(contingent)なことか、自我が結局ひとつの虚構にすぎないことへの予感。

(3)自我は関係である。「風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら」という部分の「風景」とは自然環境のこと、「みんな」とは他者でありひいては社会のこと。「交流電燈」。人や環境との相互作用という意味での「交流」すなわちコミュニケーション。自我は「交流」の産物。

(4)自我は複合体である。「あらゆる透明な幽霊の複合体」の「複合体」。「わたくし」はかろうじて「ひとつ」をたもっているものの、じっさいには複数的な構成体であるということ。

(5)自我は矛盾である。自我が複合体だとすると、当然のことながら、人間と自然とのせめぎあい、そして他者と他者のせめぎあいそのものが、複合体としての自我に入りこんでくることになる。

見田宗介『宮沢賢治──存在の祭りの中へ』(岩波現代文庫2001年)。近代日本の自我の可能性と限界を賢治の世界に読む。社会学者。
福島章『宮沢賢治──こころの軌跡』(講談社学術文庫1985年)天才のパトグラフィ(病跡学)。精神医学者。


■自我の社会性

鏡に映った自我
マルクス「フォイエルバッハに関するテーゼ」:
「人間的なものとは、その現実性においては、社会的諸関係の総体である。」
マルクス『資本論』:「人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。」
クーリー「お互いがお互いにとって鏡であり、その前を通る人を映している」「鏡に映った自我」(looking-glass self)。
→他者という鏡。


■自我の多面性
他者(鏡)によって、「自分は何者か」という自分自身の定義もいろいろ変わってくる。
教師に対して学生として自分を定義する。親に対して子供として
店員に対しては客として
医者に対しては患者として
先輩に対しては後輩として
著者に対しては読者として
外国人に対しては日本人として
身障者に対しては健常者として自分を定義する。
自己定義「そもそも自分は何者か」:他者に対して自分はどういう立場なのか。
そのつどかかわりあう他者によって自己の定義を取り替えているからである。人は直接間接に関わりあいのある他者の数だけ自我をもっている。

■自我の主体性
ジョージ・H・ミードは心理学者ウィリアム・ジェイムズの概念を受け継いで、自我にはふたつの局面があるとした。
「客我」(me)「知られるわたし」「他者の態度の組織化されたセット」
「主我」(I)「知るわたし」客我に対する自然発生的な反応。主我は複雑な様相をしめす。
思いつき・願望・感情・気分といった本人だけが特別な通路をもつ主観的な世界である。生物学的衝動や本能・生理学的状態などは社会が制御できない、偶発的・非合理的な部分である。
主我は、個性的修正をあらわす。ユニークさ・個性的な彩り・感性・個人差といったことがらであり、型どおりでない局面である。
主我は、客我に対して働きかけ、新たなものを生みだす創発性の側面でもある。主我とは自己実現・自由・自発性・自律的抵抗などが生じる基盤であり源泉である。
 自我とは「主我と客我の対話のプロセス」である。社会を取り込む能力と、社会に個性的に反応する能力の二つが備わっているダイナミックな過程。

■アイデンティティ(identity)
「わたしはわたしだ」という思い
矛盾するさまざまな自我像のなかから、なるべく矛盾の少ないものを選択し、あるいは受け入れて、ある程度の統一性をつくりあげてゆく。「自分はいつも同じ自分である」という確信や実感。
近代社会においては自我に一貫性をもたらそうとする内外の圧力がはたらく。

アイデンティティ・クライシス
 精神分析の研究者であるロナルド・D・レインによると「自己のアイデンティティ、とは、自分が何者であるかを、自分に語って聞かせる説話[ストーリー]である」

→自分を納得させる一種の物語だというのである。
アイデンティティ=自己定義+他者による承認
他者との関係が曖昧だったり、他者による定義が自分にとって好ましくないものだったりするとアイデンティティは不安定なものになる。その結果として一種の心理的危機におちいることがある。これを「アイデンティティ・クライシス」(identity crisis)という。
参考 戸川純 「好き好き大好き」 ウォシュレットCM

■モラトリアムとしての青年期
青年期は多面的自我を統合していくプロセスにあたる。とりわけ「子ども」としてのアイデンティティから「大人」としてのアイデンティティヘの移行が重要な課題となる。
子供でもなく大人でもない中途半端なアイデンティティをかかえたこの時期を「モラトリアム」(moratorium)。
「モラトリアム症候群」は、このようなアイデンティティ・クライシスを乗り越えるのに失敗した結果。
アイデンティティ(サカナクション)

社会的弱者とアイデンティティ

エリック・H・エリクソンという精神分析系の研究者が『幼児期と社会』(一九五〇年)のなかで臨床的関心から導入したものだ。
「自分をみうしなう」社会状況のなかで「自分をみいだす」精いっぱいの努力をしようとする人たちによって社会的に支持された。
不本意な状況にいる人たちにとってこそ、それは深刻な間題となる。たとえば、女性・老人・病人・障害者・被害者・被差別者・社会的弱者といった人たちにとってアイデンティティの問題は、それが危機にあるだけに切実だ。

▼これを社会から見ると。

■役割現象とはなにか
als(として)規定
わたしたちは他者をありのままに認識することはできない。かならずあるカテゴリーを適用して認識する。
(1)他者を類型化することによって他者を知り認識する「他者類型化」と、
(2)類型化図式を手がかりにして自分の行為の方向づけを定める「自己類型化」の側面からなっている。これはさらに
(3)「社会関係についての類型化」に連関している。
〈他者-自己-関係〉の三項について「□□として」という類型化がおこなわれている。一種の「次善の策」

相互作用の媒体としての役割

役割は類型化図式にあたる。

(1)常識的構成体――役割はまず日常生活において行為者によって使用され、使用されることによって再生産・再構成される知識構成体であること。その点で役割は「社会学の発明ではなく社会の発明」なのである。集団に共有された知識在庫となるとき、類型化は規範性と正当性をおび、役割期待として作用する。

(2)個性認識――類型化図式によって認識するといっても、わたしたちは類型と他者とを同一視するわけではない。類型からのずれや偏差から他者の個性を組み立てるのだ。

(3)社会外的不可測性――人は他者のその場の社会関係からはみだす部分をたえず想定する。予測可能な類型化図式に社会外的不可測性をまぜあわせるのである。

(4)共犯性あるいは共謀性――〈客-店員-購買〉という類型化図式にふたりの行為者と社会的場面がおさまってはじめて「客の購買行為」のシーンが成立する。したがって双方がひと組の役割を準拠図式として採用することによってはじめて相互作用に一定の予測性と安定性がえられる。類型的な社会関係が共犯的=共謀的に演じられることになる。「共犯」が成立するとき相互作用の予測性と安定性が高まるために、役割の類型化図式は規範性をおびてくる。「あたかも□□であるかのように」(als ob)経過する。この虚構的な状態は一定の強固さをもちえるものの、所詮うつろいやすい〈こわれもの〉にすぎない。それは本質的には偶発的(contingent)な現象である。

(5)事実行為性――類型化図式それ自体は抽象的である。しかし、その抽象性に対して役割演技は具体的である。シナリオと俳優による上演。俳優は役割のマリオネット・役割の奴隷・役割の媒体ではない。抽象的な類型化図式を手がかりにそのつど役割は具体的な事実としての行為によって創造される。

(6)行為者の理解性――役割は相互作用における解釈図式として行為者を媒介する。行為者はその場その場で有効と考えられる役割を自分の知識在庫から選択し、それを他者認識の手だてに使ったり、自分の行為の方向づけをするのに用いる。役割についての観念とじっさいに演じられつつある役割を媒体にして行為者は自己提示・自己理解・自己反省をおこない、アイデンティティの調整をおこなう。役割現象は解釈的過程である。

役割概念の定義
「特定の有意性領域のなかで機能する規範的裏づけをもった類型化図式」。
 一定の社会的場面においてのみ役割は強力に機能する。ある限定された時間的・空間的・社会的文脈が特定の役割に優先的に妥当性と正当性をあたえるのである。

さまざまな役割類型
(1)年齢役割――子ども・若者・大人・中年・老人▼11
(2)家族役割――夫・妻・長男・親・母・末っ子・一人娘▼12
(3)性役割――男・女▼13
(4)職業役割――医師・看護婦・教師・ガードマン・役人・軍人・事務員・セールスマン・営業マン・研究員▼14
(5)組織内の地位・職務――平社員・主任・課長・部長・社長・ディレクター・プロデューサー・カメラマン・タイムキーパー・スポーツの各ポジション▼15
(6)状況的役割――受験生・浪人・失業者・討論会の進行役・ゲスト・隣人・観客・遺族・新郎新婦・病人・患者・被害者・加害者・よそ者・恋人・リーダー・子分・いじめっ子・傍観者・送り手・受け手▼16
(7)逸脱的役割――犯罪者・前科者・変わりもの・変質者・精神異常者・不良少女・ツッパリ・同性愛者▼17
(8)性格類型――お人好し・頼りがいのある男・淋しがり屋・うそつき・おせっかい・スポーツマン
人間はこれら多様な役割を理解し使い分ける担い手として社会的相互作用過程のなかに登場する「多元的役割演技者」(multiple-role player)なのである。

子どもの社会化

 近代社会において社会の一員になるということは、multiple-role playerとしての一定の能力を身につけることだ。そして役割のいくつかを選択的に受け入れ、受け入れた役割を核にしてアイデンティティを確立してゆくことである。幼年期から青年期にかけてなされるこの一連のプロセスのことを「社会化」(socialization)という▼1。

「役割取得」(role-taking)より正確には「他者の役割を取得する」(taking the role of the other)。「他者のパースペクティヴに入る」。
 子どもは他者との相互作用のなかで、自分と他人の位置づけや役割の属性[□□らしさ]を学んでいく。この場合の他者とは第一に母親であり家族であり遊び友だちである。これらの人たちを「重要な他者」(significant others)と呼ぶ。
 社会化の過程のなかでひときわ重要な段階は「ごっこ遊び」(play)と「ゲーム遊び」(game)である。まねたり、ふりをすることによって、男らしさ・女らしさ・子どもらしさ・お兄ちゃんらしさといったもろもろの類型化図式に付随する他者の態度を自分のなかに呼び起こすのである。
 「ゲーム遊び」になると、自分に当てがわれた役割を演じるだけではだめで、複数の他者の演じるさまざまな役割をすべて関係づけて理解していないとゲームに参加できない。複数の他者の役割と態度を意識のなかで組織化していなければならない。意識のなかで組織化されたこの複数他者の態度のことをミードは「一般化された他者」(generalized others)と呼ぶ。「客我」(me)にあたる。

大人の社会化――第二次社会化

就職したとき・転職したとき・昇進したとき・単身赴任したとき・子会社に出向したとき・入院したとき・障害者になったとき・結婚したとき・犯罪者になったとき・囚人になったとき・徴兵されたとき・改宗したとき……従来のアイデンティティの軌道修正をよぎなくされるときに生じる。
 第二次社会化は第一次社会化とちがって、まったく新しくアイデンティティを形成するわけではなく、基本的には新しい役割に関する特殊な知識を獲得することである。
はじめはヨソヨソしい仮面だった役割が、いつのまにか自分自身の顔そのものになっていく。「らしさ」を備えていく。

役割葛藤と社会学的アンビヴァレンス
ひとつの役割といっても、じつはひとつではなく、正確には一群の役割・一連の役割というべき現象なのである。これをマートンは「役割群」(role set)と呼んだ▼3。役割がじっさいには役割群であるかぎり、役割葛藤は大なり小なり生じることになる。しかもこれは個人の問題ではなく、あきらかに社会構造の問題である。
 このようにひとつの役割であっても、矛盾するいくつかの役割期待と個性的反応をふくんでいるわけで、正確には「役割内葛藤」(intra-role confict)という。ここから考えると、ひとりの人物が複数の社会的場面で遭遇するさまざまな役割期待が矛盾しないわけがない。たとえば社内の人望を集めている有能なエリート部長という役割と、妻にも子供にも相手にされない所在なき父親という役割のように、こちらの方は「役割間葛藤」(inter-role confict)という。いずれも社会の「しわよせ」すなわち構造上の矛盾と対立が個人にやってくる場合といえる。マートンはこのような役割現象を総称して「社会学的アンビヴァレンス」(sociological ambivalence)と呼んでいる▼4。アンビヴァレンスとは「両義性」とも訳されることばで、精神分析学では分裂病の基本症状に使われることばである。「相反するものにひきさかれる」というイメージでとらえてもらえばいい。調和のとれた社会でないかぎり、社会学的アンビヴァレンスから逃れることはできないのであり、近代においてそれはユートピアである。

役割のずれ

人間が本質的に役割のマリオネットではありえない。適応能力の不足、役割についての知識のずれ・ゆがみ。片寄った教育や特定集団にみられる偏見などによって生じるものもある。実行上のずれ・ゆがみがある。

役割距離

 人は役割を演じるだけでなく、演じるふりをすることがある。つまり「自分はこの役割に愛着はないのだ、本当の自分はこの役割のなかにはないのだ」ということを役割行為のなかで表現することがある。
 このように、演じている本人はまったくその気がないことを表現しながら役割行為がおこなわれることを「役割距離」(role distance)という。皮肉や冗談・ユーモア。

役割はかならずしも「よそよそしい仮面」とかぎらないこと。ときには自己実現のメディアとなることもある。

現代人は、「真の自己」(real self)を役割の外に求める傾向がある。

さらにその先の議論(社会学)