2020-12-16

情報倫理とセキュリティ2020後期12信頼と裏切りの社会・投稿集

情報倫理とセキュリティ2020後期12信頼と裏切りの社会

57 件の回答

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応答

平均所要時間: 43 分 22 秒

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1. 本日の講義で詳しく説明したように、信頼の問題を逆方向から考えると「裏切り」の問題になります。世間ではよく「裏切られた」と言いますが「裏切った」という人はとても少ないように思います。特定の個人を裏切ったことはありますか。また、個人に対してではなく集団や組織に「裏切られた」「裏切った」と感じたことはありますか。その経験から信頼とは何であるかを考えてみて下さい。500字以上3000字以下。締切は2020年12月12日午後11時30分とします。「私」を主語として「ですます調」で書いて下さい。

57応答

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応答

1

私は多分、特定の個人を裏切ったことはありません。ここには断言できる自信はなく、おそらくないという回答になります。なぜなら、私は裏切ったと思ってなくても、相手には裏切られたと思ってることがあったかもしれないからです。また、個人ではなく集団や組織に裏切った経験、裏切られた経験はあります。まず、裏切った経験は、ドタキャンしたことです。ドタキャンは裏切る行為に値すると考えます。例えば、歯医者の予約をしていて、予約していたことを忘れて、ドタキャンしてしまうことです。これは意図してドタキャンしたのではないのですが、相手の歯医者という組織には私が裏切っていることになると考えたからです。また、裏切られた経験は、ドタキャン以外では、応援していたアイドルに裏切られた経験があります。これは、今までこのメンバーでデビューすると散々語っていたのにある日突然、メンバーを増員することが発表され、今後はこのメンバーで頑張りますと宣言された時は裏切られたと感じました。これも相手はもちろん私たちを裏切っているつもりはないと思いますが、私たちにとったら、いきなり言うこと変えて、応援してといわれても無理となるし、あまりにも突然すぎてショックでした。この出来事が近年で1番裏切られたと思う瞬間です。次に、これを踏まえて、信頼とは、お互いを思いやる努力の上で成りたつものだと考えます。また、「信頼しても信用するな」という言葉があるように、信頼と信用を一緒にしていることで、「裏切られた」感情が生まれると考えます。相手を信頼していると相手任せや他人事になり期待に対して、自分は努力をせず、相手だけに責任を負わせようとすることになり、お互いにとって最悪の結果になってしまうからです。私の経験した例でいうと、私は応援していたアイドルに対して、勝手に絶対にメンバーを変えずデビューすると信用しまっていました。また、私はファンとして、アイドルにメンバー増員せざるをえなくなったところまでなんの努力もせず、アイドル側に人数を変えないという責任を投げたため、裏切られたと感じていると思っています。なので、信頼とは、信用ではなく、お互いを思いやる努力の上で成りたつものであると考えます。

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まず、「裏切られた」という人が顕著に見受けられ、「裏切った」という人がとても少ないように思いますというのは、なぜかというと、裏切り行為をする人の性格が悪いので人を裏切ったとしても「自分が悪いことをした」という自覚がないからです。このような人間は多くの人から嫌われます。裏を返せば自己中ということになります。では、なぜ自覚がないのでしょうか、それは、何が好ましく望ましいかについての社会的な判断基準、諸々の行為や事物について、それらに対しどう考えるのが正解であるか、他社の頭の中にあるもの(意図、思考、目標等)や、心のなかに在るもの(感情、気分など)を正確に推測できることをわきまえるための社会的知性を担う野の病変、機能不全、先天的発達障害の可能性が高いからです。また裏切った自覚があったとしても人は大半、自分をよく見せるためにいいません。裏切られたという人は、人間として真っ当な感情を所持し、基本的正しい行動をしているので、たとえば、履行されるべき取引(商品を販売するかわりに代金をもらうという行動)を消費者である相手側に履行されなければ、不公平であり、嬉しいなどと思えませんよね?ここでストレスが発生し、マイナスの感情が湧いてきますので、「裏切られた」と嘆くのです。仮に話の通じない相手だった場合嘆くほかありません。これらを考えると、犯罪ということになるので、勿論堂々と「裏切った」という人は利益にはならないので少ないでしょう。信頼とは過去の実績や業績、或いはその人の立ち振舞などの根拠のもとにあり、信頼を得るためには信用という何らかの実績や成果物が必要不可欠なものを得ることから始まるのです。

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集団や組織に裏切られた・裏切ったことはありすぎるせいなのか、思い当たることがありません。私が特定の個人を裏切った記憶で覚えているのは、事柄としてはかなり小さい出来事なのですが、高校2年生の体育の時間で長距離を走った時に友人を裏切ったことです。走る前はお互いに一緒に走る約束をしていたし、私は友人Aに『自分は走るのが遅いからAについていくね』と言ったようです。いざ長距離を走ると、思ったよりも調子が良く友人を置いて行ってしまいました。体育が終わり教室で着替えているとAが他の友人たちに『さっきあいつに置いて行かれたんだけど!Aに付いて行くねとか言ってたくせに裏切られた!』と話していて笑ったことがあります。このように考えると信頼とは相手に対する親密度も関係してくるように思います。友人Aとはその当時から現在まで定期的に会う仲の良い友人ですが、『この程度の事柄だったら多少裏切ったとしても、あとから話をすればわかってくれる(気にしない)人だから大丈夫』という確信があったからこの時も裏切ることができたのだと思います。したがって信頼とは時には逆方向である裏切りへ変化し、信頼しているからこそ裏切ることができるという場合もあると考えました。

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私は、裏切りは信頼が前提にあるからこそ生まれると思います。裏切りという感情は、一回何かを信頼、信用しているからこそ存在するのであり、そうした信頼がなければ、ある事象について期待はずれだった、残念だった、というふうにしか思わないのではないでしょうか。 また、信頼は期待という要素も含むと私は思います。何かを信頼するということは、こうなってほしい、こうなるであろう、という期待を含んでいるということです。 以上のことを踏まえると、裏切りということを考えるにあたって、「人を信頼する」ということは、人に自分が何かを期待したり、こうなって欲しいという希望を持つことです。そうした希望が壊れてしまうことが裏切りです。裏切られたと言う人が多く、裏切ったと言う人が少ないということは、裏切られたということが、信頼している側の視点であり、信頼されている側の視点ではない、ということが解決してくれると思います。なぜなら、信頼されている側は期待することはなく、裏切るという感情が出るわけがないからです。それでも裏切ったなと思う人は、自分の視点だけではなく、相手からの見た自分の視点を意識するからです。 私自身、裏切られたと言うほどではありませんが、ある人に対して良い人だろうと思っていたのに、悪いことをしているのを見て幻滅したことがあります。しかし、自分の全てを人に見せるということは難しいことであり、自分自身ですら、全ての人に素の自分を出すことができていないのに、人の全てを見たような気になって、こういう人だと決めつけ、相手の素を知った時に裏切られたと思うのは、ある意味人間のエゴなのかもしれません。 人と人が助けあうことでしか生きられないわたしたちにとって、信頼はとても重要な感情であると思います。しかし、さらに重要であるのは、先ほど述べた通りのままに、人は裏切る生き物だと諦めの感情を持つことではなく、相手の視点、感情を考えることなのだと思いました。そうすることで初めて、自分が相手に期待するだけではなく、相手も期待してくれる、双方に信頼関係を持つことにつながるのではないでしょうか。

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 私は特定の個人を裏切ったことがあります。その内容として、恋愛関係においてです。高校生の時、仲の良い友人に彼氏が出来ました。その友人は、私にとって大きな存在であり、悩み事ができればすぐその子に相談するなどして、頼っていました。友人も彼氏の悩み事や他の悩み事を私に相談したりもしてました。私はその彼氏と同じクラスで、友人は違います。ある日、クラスの席替えでその子の彼氏と隣の席になりました。毎日話すようになり、すごく仲良くなりました。仲良くなるうちに、私も好きになってしまいました。もちろん友人には言えませんでした。その子の彼氏とは、SNSでも話すようになり、電話もちょくちょくするようになりました。友人の彼氏だとは分かっていても、自分の思う好きと言う気持ちには勝てませんでした。ある日、その子の彼氏から、「彼女とは別れるから付き合ってほしい」と告白をされました。私は友人との仲より、嬉しさが勝ってしまい、OKを出してしまいました。友人に黙っとくにもいかず、話しました。友人は大泣きしながら、「ななこのこと信じてるし、仲壊したくないから応援する」と言われました。その言葉と泣いている友人を見て、「裏切ってしまった。最低だと」深く実感しました。友人は私のことを信じて、彼氏の話もしていてくれたのに、私はそんな「信じてもらえてる」という大切な出来事に気づかず、自分の都合の良い方。選んでました。結局、その男性とは付き合いませんでした。友人とは今でも定期的に会う関係までになりました。  この経験から、信頼とは「信じて頼る」と書いてあるように、互いに信じて頼り合っている相互関係だと私は思います。それは、形はではあまり見れない物だと思います。「どんな悩みも相談できる友達」や「互いに助け合いながら色々な事を乗り越えていく夫婦」や「一緒に仕事を進めていく中で助け合える会社の仲間」など、様々な場面で、全て信頼関係でなりたっていると私は考えます。また、信頼関係は、生活していく中で自然と結ばれている場合がほとんどでないかと思います。信頼できる人が周りにいるのはとても心強いことですし、周りの人が信用できなかったり、頼れないというのは思っている以上に辛いことだと思います。日頃から周りの人と信頼関係を構築していれば、様々な場面で効率が良かったり、助けられる場面が出てくると、私は思います。よって、「信頼」とは、私たち人間にとって精神安定剤のようなものであり、必要不可欠なものだと私は思います。

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私は、就職活動において、ある就活エージェントサービスを利用しました。一度面談をしたときに、とても人柄がよく頼りになりそうな人物であり、この人になら就活についての不安も気軽に相談できそう、精一杯自分の就活をサポートしてくれるだろうと、期待と安心が生まれました。その後に、その後の面談の希望を決めて今後のスケジュールについてまた話し合ってくれるとのことでしたが、それ以来いっさい返信がこなくなり、とても裏切られた気持ちになりました。人としても、仕事に対しても投げやりな人であったんだなと思い、見かけや態度では分からないと感じ、とても悲しい気持ちになりました。それと同時にその会社への不信感も生まれ、1人の人への不信感が組織全体への不信感に変わってしまうことへの恐怖も感じました。 この人に自分の未来への第一歩である就活をサポートしていただくというふうに信頼した経験から、信頼というのは人に対して未来の行動を期待して、この人には任せても大丈夫だと頼りにすることだと思いました。「信頼」は、多くの場合は、その人が過去にどれだけの成果を出してきたかを評価した上で論理的に行われると考えます。これは、「信用に基づいた信頼」と言えます。ただ、「信頼」は、無条件に相手の行動を信じることもその意味に含んでいると思います。

7

裏切った、裏切られたことがあるかということで思い浮かぶことの多くに約束があります。小さな頃から何かあるごとに交わしてきた約束がこの問題で一番私にとって身近に感じました。私は個人として裏切られたことはあるということを覚えています。中学生の頃にお祭りに一緒に行く約束をしていた子が、他の友達と行くからと言って簡単に断られた(裏切られた)ことがあります。このときの私の心情としては裏切られた、約束を破られたということで怒りと寂しさがありました。裏切られた側はとてもいい気持ちとは言えませんでした。逆に友達との約束を破り、裏切ったこともあります。先に約束をしていたことはわかっていたのですが、他に誘われたことを優先してしまい簡単に裏切ってしまいました。裏切ったときも裏切られたときも書いたように簡単に裏切りは起きてしまうのです。しかし、このような裏切りが同様の人の間で複数回行われてしまうとその人同士の信頼が薄くなっていくと思います。裏切るような人間のためその人を信頼できないのです。信頼とは相互理解をし、互いに色々な困難があったとしても信じ合い問題に対して取り組んでいけるようなことをいうと考えました。信頼を深めるためにはその人をまず良く知るということが必要になると思います。相手のことを知らないと次どんな行動をするのかなどわからずに、疑いの目を向けてしまいます。そのため相手がなにを考えているのか、なにをしたいのかなど相手を知ることにより多くのことが見えてくるのです。

8

 私は正直に言うと裏切ったことがあります。なかなか言いづらいのですが親のお金を勝手におろしてしまったことがあります。それは1年経った今もばれてなくて、こっそり返そうと言う考えであり、親が私に対する信頼の裏切り行為でしかないと自覚しています。この様に客観的に今この文章を読んでいても改めて裏切りだと思いますし、ここ1年間とてもそれだけの罪悪感が頭をよぎります。裏切りが少ない様に見えると言うことは、もしかしたら私の様にどこかで毎日罪悪感に苛まれている人が居るんだと感じています。しかし裏切った人にはこの感情がわからないのでそう見える社会が作られていると言うことなのかなと少し感じました。  また集団に対して裏切られたと言うことも同じくある。といえます。集団への裏切りというのは、より訴えることが難しいと考えています。例えば、その集団の中の個人に伝えてもその個人が集団に働きかけてくれるかどうか。そもそも協力するかどうかというさまざな段階で問題点があげられるため集団からの裏切り行為というのはたとえ分かっていても防ぐのは難しいのかもしれません。私が実際にそうであり集団への裏切りに対しては最初の段階で諦めました。  総じて私は信頼とは厚い壁の様に出来ている様に見えていても、脆く薄く出来ていること。またそれを知るものが少なく感じていないだけの可能性があるということだと思いました。

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私は誰かを裏切ったこと裏切られたことは特に記憶にありません。しかし中学生の時に裏切り行為に近いことはしたことが一度だけあります。ある友人に今日一緒に帰ろうと言われ、いいよと約束をしていたのですが当時好きだった女子からもその日一緒に帰ろうと言われました。時点で好きだった女子から一緒に帰ろうなんて言われたら、二人だけで話す絶好の機会だし、何かしらのアプローチにもな?と思いとても断りきれませんでした。しかし友人との約束もあったので非常に複雑な気持ちでした。しかし無断で約束を破るのはあまりにも悪質に感じた私は友人に断ることにしました。しかしその断る理由も女と帰るから君とは帰れないというとなんだが相手が不愉快に感じるかもしれないと思い、友人関係が悪化するのを防ぐためにも「今日部活の居残り練があるから一緒には帰れない、来週帰ろうぜ」と嘘をついて断りました。相手は快く承諾し関係も悪化せずに済みましたが、後々にあれは裏切り行為であったのではないかと思いました。その友人とは結局中学を通して仲のいい存在でしたが私が約束を断ったこと、そしてその理由に対し、何一つ違和感をみせる表情を見せなかったことや後から問い詰めるなどしなかったことは、気を使ったか、私のことを信頼しているからのどちらかだと思います。私は今後も信頼をしてもらうために「来週帰ろうぜ」という先の予定を決めるセリフを言ったことで信頼を勝ち取ろうとしていたのだと思います。つまり信頼とは未来のことであり無条件で行うものなのではないでしょうか?

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私は、集団を裏切ったことがあります。その経験からすると信頼というものは、価値がつけられるものであり、裏切りも価値がつけられるものだと私は思っています。なぜ、そのように思うのかというと、信頼に価値がある例として、クレジットカードや保証人、信用取引など様々なものがあります。また、友人間での信頼というものも価値が付けられると思います。もちろん、友人間での信頼を買うというのは、難しいですが、自分が利益を優先するために信頼している相手を裏切る時に信頼というものは、その裏切ることにより得られる利益よりも価値が低かったということにもなりますし、信頼しているからこそ、裏切らなかったとなれば、裏切って得られる利益よりも信頼のほうに価値があったということになります。そう考えた時に信頼と裏切りというものは、表裏一体であり、信頼に価値はつけられないと言っている人でも知らずに損得勘定で動いているということになると思います。それでも、違うという人は恐らく自らそのような経験をしたことが無いということだと思います。また、裏切りに関しては、他の場合でも価値が見出せます。例えば、個人や集団を裏切った後に、裏切った相手に対して、謝罪や誠意(何かを奢るや逮捕される)などをして、相手が許した場合、信頼は買えませんが、裏切りという行為に対しては、相応の価値を払ったということになります。これが、私の考える信頼というものです。

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 私の場合は、体調不良が原因で、友人と遊ぶ約束を当日にキャンセルしたことがあり、予定を先延ばしにしてしまったことがあります。 これによって、友人からはマイナスイメージを持たれてしまい、以前よりも遊びに誘われる回数が減ってしまったような気がします。 このように、友人を裏切ってしまった経験から、私は、信頼というものは、社会関係や友好関係を円満に保つ上で、必要不可欠なものだと実感するようになりました。 仮に、これを会社に当てはめて考えると、特定の個人や集団を裏切り、社会的信頼を失ってしまった会社は、関わる利益が小さいと周囲から思われるようになり、投資や取引が断られることになります。 特に、SNSが普及している現代においては、インターネット上で、その会社に関する口コミや悪い評判といった情報がすぐに拡散されてしまうことになります。これによって、この会社は、周囲の人や会社と関係を保って仕事を続けるということが難しくなり、将来的な利益を獲得することが厳しくなってしまいます。 以上のことから、信頼は周囲からの勝手な期待ではありますが、その期待を裏切ってしまうと、悪評が広まり、将来的な利益を獲得することができなくなるため、社会関係や友好関係を上手く築き、周囲からの信頼を獲得することは非常に重要なことだと私は考えます。

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私が特定の個人を裏切ってしまった経験は留学中のグループワークです。当時私の英語力は乏しく、議題を理解する能力もリサーチして情報を集める能力にも欠けていました。そんな中で経営が専攻だった私は、英語のクラスで一緒だったイラン人の友人とペアを組み、グループワークをすることとなりました。彼女の英語力は私よりもはるかに上で、現地人の友達もいるほど英語には苦労している様子はありませんでした。私は一緒にワークを進めるにしてもあまりにも戦力にならないため、彼女は自分一人で課題を進めることにしました。私はそのとき申し訳ないと感じながらも、フリーライダーになっていました。帰ってきた成績は良かったため、より罪悪感を抱きました。私はあのとき、裏切ってつもりはなかったですが、友人からすればフリーライダーの一人で、裏切られたように感じたと思います。ワクチンの話でもありましたが、副作用を恐れるため、しばらくは様子を見ることもフリーライダーという話が印象的でした。イギリスで対コロナウイルスのワクチンが始まり、二番目にワクチンを打った人がウィリアムシェイクスピアという名前のお爺さんだったという記事がネットで記事になっていました。どうしてエリザベス女王が先に投与されないのだろう、と疑問に思っていた私は、どんな副作用があるか分からないから、しばらくは様子をみるというフリーライダーがいるという、今回の講義で納得しました。イギリス国民からしたら、エリザベス女王がワクチンを避けていることは、裏切りのように感じる人もいるかもしれない、と思いました。なぜならワクチンを受ける国民は皆、ワクチンの安全性を不安に思っていると予想します。しかし誰かが投与されなければ、感染を予防することはできません。それを女王が様子を見ているだけでは国民は裏切られたように感じてしまい、信頼を失うと思います。女王が自ら私も投与されたからみなさんも国民のためにワクチンを打ちましょう、と呼びかけることに意味があり、信頼関係をより築けると感じました。信頼とは片方だけで成り立つものではなく、お互いがある程度思いやって初めて成り立つものだと思いました。

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私は自分自身で裏切ったという経験は思い当たらないですが、裏切られたなという経験はあります。私がされた裏切られたという経験はバイト先でのことです。私はずっと同じ店で働いているのですがそのお店の新店がオープンする事となり私はそこのオープニングスタッフを志願しました。そのことは社員の方は快く快諾してくださりオープンの前になったら連絡するからと言って私はそれを信じて待っていました。ですがオープンの月になっても連絡は来ず私はそこの店で働く事にはなりませんでした。この時に私はその社員から、というよりは会社から裏切られたなと感じました。この経験から考えられる信頼とは誠実な対応だと私は思います。私を雇えなくなった理由があるのならその理由を包み隠さずに話す、忘れていたのなら忘れていたという、また日を改めて雇うつもりだったのならその事を話すと言ったように私自身に対しての理由を話してくれればその人に対し裏切られたという気持ちは抱かなかったと思います。どんな些細な約束や決まり事でももし守れなかったのならその訳をしっかりと話すという事をすれば相手が裏切られたなと感じることはないのかと私は思います。このように相手に自分の誠意を見せ誠実に自分の言葉で意見を伝えれば信頼というものは生まれると思います。

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まず、私は裏切りということ関して、裏切った当人がそのことに対して直接裏切ったと言わない人が多い理由として、本人自体に''裏切った''という自覚がないからなのではないかと考えました。された側にとっては、今後生きていく中で一生記憶に残るくらいの出来事であっても、した側(自覚がない場合も含め)の記憶には残ることもありますが、大抵は残りにくいのかなと感じました。私も、自分で気づかないうちに人を傷付け、裏切られたと思われたことがあったのかなと思うと、とても怖くなりました。私自身の裏切りの経験の中で、''裏切る側''の出来事で鮮明に記憶していることがあります。高校で部活をやっていた頃なのですが、とある大会で、顧問にチャンスを与えるから頑張ってみろと言われ、自分にとってかなり大きな挑戦を託されたことがありました。選抜メンバーに選ばれたかったし、顧問の先生にも認めてもらいたくて、朝練や部活が終わった後も夜居残りで練習を頑張りました。選抜の時に、私は緊張してなかなか上手くいかず、結局そのメンバーになることはできませんでした。後に顧問からは、お前にすごく期待していたのに、今回の結果は個人的に残念だった、今まで一体何をしてきたんだと言われ、その時は自分なりに最大限頑張った中での挑戦だったので、とても悔しくて今でも鮮明に記憶に残っているのですが、今考えてみると、結果的に顧問の期待を裏切る形になってしまったのかな、と思いました。これが裏切りに含まれるのかは定かではありませんが、今思い返すと私はその時顧問の期待を裏切ってしまったのだなと感じます。この出来事が信頼という言葉と関係があるのかと問われると少し違うかもしれませんが、私は信頼とは、互いのことを理解し合うことだと思っています。片方の立場だけが相手を信用するのでは信頼関係は成り立たないので、互いの性格や特徴、また短所や長所を理解し合い、協調することが大事だと考えます。

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私は高校を卒業した後に友達からの紹介で飲食店で、とりあえず一年続けるという契約を交わしてアルバイトを始めたのですが、そのアルバイト先の環境が合わな過ぎて一か月ももたずに辞めたことがあります。その時にまず信頼して紹介してくれた友達を裏切りました。また一年間続けるという契約をして採用してくれた店長も裏切ることになりました。店長は私の友達を信頼して私への紹介を承諾してくださったので、私の友達に対する店長の信頼も損なわせてしまいました。私は組織や団体に裏切られたことは心当たりがないのですが、とても仲の良かった先輩には一生顔を合わさないくらいの相当な裏切りにあったことがあるので、人は本当に信頼をしていても裏切られるものだと思っています。人や会社に1,2回あったからと言って信用が生まれるわけではなく、信頼というのは過程や実績などが伴って長い時間をかけて得られるものだと思います。それには過去犯罪歴を見たり社会性圧力を使ったり、そういう表面上の物差しでは確実な信頼は得られない気がします。その人の行動、言動、能力など自分が思う信頼できるというラインに達した時に初めて信頼が生まれると思います。社会的に比較してとか、他の人と比べて信頼できるとかではなく、自分が認める信頼が一番信用できると思います。

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私は人生の中で一番の裏切りをしたなと申し訳ない気持ちになったことがあります。 それは両親に対して裏切ってしまいました。その内容とは私は小学校からサッカーをやっていて中学ではjリーグ の下部組織で活動していてお金もたくさん注ぎ込んでくれました。高校はスポーツ推薦で私立の高校に入学させてもらい、サッカーの道具も色々買ってくれました。しかし、私はスポーツ推薦で入ったのにも関わらず、部活をやめて学校もやめてしまいました。そのことは今振り返れば期待して入学させてくれた両親に対して裏切り行為をしてしまったなと思いました。集団や組織に対しての裏切りはそれこそ学校を辞めたことだと思います。高校のサッカー部の監督は中学の時からお世話になっており、一緒に選手権に行こうと言ってもらい、スポーツ推薦が4名と数少ない枠を私に使って頂いたにも関わらず、サッカー部にも学校にも裏切りをしてしました。このような経験からその時には自分も裏切ってしまったとか裏切られたとか思うことがあると思います。だが、今では大学に入学し両親も安心していると思います。裏切ってしまうことは誰にでもある行為だと思うが、そこからの行動や結果がその行為をちゃらにできることだと思っています。

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私は今回の講義を受けて他人を裏切ったことがあるか考えたときに、約束を守らなかったことが思い当たりました。友人と遊ぶ約束をしていたのに急な用事でドタキャンしてしまった経験はあります。それは風邪をひいてしまったり、家庭の事情でやむを得ずにと言った感じで意図して約束を守らなかった訳では無いのですが、結果的に約束を破ってしまったことはあります。逆もまた然りで約束を破られたこともあります。信頼という点で考えるとそう言った友人同士で遊ぶ約束と言った小さいことでも、積み重ねていくことが信頼だと私は感じます。出会って直ぐに信頼関係を築けるかと言えば、人間同士では難しいと私は考えます。なので小さなことでも積み重ねていくことで信頼関係は築かれていくものであると感じました。しかし、特定の個人ではなく、集団や組織の場合、特に学校や会社というものは常に信頼できる存在でないといけないと考えます。学校の場合は信頼できるような施設や教育方針がなければ生徒は集まらないと思いますし、会社の場合も同じで信頼できるシステムがなければ取引をしてくれる人は現れないと思います。私はネットショッピングで買った商品が届かないと言った裏切りを受けたことがありますが、もちろんそれ以来その会社の商品は買わないようにしています。会社や学校は信頼できないと思われてしまうと存続自体が危ぶまれてしまうので初めから信頼できるというシステムを構築していくことがなによりも必要であると感じます。信頼を得るのは一瞬では難しいですが、信頼が崩壊するのは一瞬で起きてしまうので相手をおもいやり、相手に利益があることは巡り巡って自分のためにもなるということを理解することが私は大切であると考えます。

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私は、これまで“裏切ったことがあるか”と考えた時に、正直すぐには思い浮かびません。「裏切ってやろう」という気持ちで何か行動を起こしたことが無いと思っているからです。もしかすると、裏切りに値するような行動があったのかもしれませんが、私の意識の中ではそのような行動はありません。このことから“裏切る”側の人間は、無意識的に裏切りに値する行為をしている人と、裏切るという意識をもって行動する確信犯の2つのタイプがあるのではないかと推測できます。 また、集団や組織を裏切った経験はありませんが、裏切られたという経験はあります。例えば、好きだった歌手グループが突如として解散したりすることは、応援しているファンの期待を裏切っていることになります。多くの人がこのような経験をしたことがあるのではないでしょうか。アイドルの推しが卒業してしまうことも同じです。何にも代えがたい気持ちがそこには生まれます。 ここで一つ気付くことは、“裏切る”の前には“期待”がついて回っているということです。しかし、この期待は裏切られた側の一方的なものにすぎません。ですから、この場合の裏切った側には当然、裏切ったという意識はありません。このようにして、無意識的に裏切りが発生していると考えることが出来ます。逆に、その一方的な期待に対して、応えるような行動をすれば喜ばれるわけで、そこではじめて、期待に応えてくれるという“信頼”というものが生まれてくるのではないでしょうか。前回のFormsの内容に当てはめてみると、ビジネスにおいては、両者の期待に両者がきちんと応えるということが信頼関係というものにつながります。ですから、一方的なものでは無意味で、お互いに信頼関係を築くということが必要になると思います。信頼とは“期待に応え続ける”行動で獲得できるもので、期待に応えられなければ信頼を失くしてしまいます。そしてそれは、期待してくれている人への裏切りということになるのです。

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私は中学生の頃、部活に力を入れていました。毎日朝練から夜練というハードスケジュールをこなしていました。練習後は親が迎えに来てくれ、そのまま塾にいき勉学も疎かにせずに頑張っていました。それは、顧問の先生との三年での最後の大会を関東大会出場という目標があったからです。その大会のために毎日がんばっていましたが、大会の数日前に問題を起こしてしまい、大会にも出れず、応援にも行けなくなりました。いままで一緒に頑張ってきた部活の仲間や、顧問の先生を裏切ったという形になってしまいました。先生にも、「裏切られた」、「残念」と言われたのを鮮明に覚えています。私は、信頼とは、お互いの努力によって生まれるものだと思いました。そして信頼は、これからの未来への期待のことだと思いました。信頼してもらうには、相手のことを信頼すればいいということではないと思います。信頼とは、未来への期待だと述べました。それに基づき信頼を得るには、自分の未来を共有することが大事なのではないかと思いました。自分の未来を見せることで、相手もその未来に共感、同じ未来を見てくれると思います。私も経験から、同じ未来への共有でたくさんの人と切磋琢磨に部活をやり続けてきたと思います。

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わたしは特に「裏切られた」と感じることはないです。なぜ人は「裏切られた」と感じるのか、根底にあるキーワードは、「信頼」と「期待」だと思いました。対人で考えるとわかりやすいです。例えば、職場で上司が部下にある仕事を依頼したとします。上司は部下の過去の実績から、「このくらいの品質と量・スピードで仕上げてくるだろう」と、勝手に予測し、また部下の成長の可能性も加味し、それ以上の期待を抱きます。しかし、成果が上司の想定の範囲外に低いと、「期待」は「失望」に変わり、「信頼」は「不安」に変わるのです。そして、「自分の期待に反した」という意味で、ガッガリしたと感じ、その度合いが強く、信頼関係を揺るがす事態になると、「裏切られた!」と感じるのです。「信頼」とは、人に対して未来の行動を期待して、この人には任せても大丈夫だと頼りにすることを指します。「信頼」は、多くの場合は、その人が過去にどれだけの成果を出してきたかを評価した上で論理的に行われます。これは、「信用に基づいた信頼」と言えます。ただ、「信頼」は、無条件に相手の行動を信じることもその意味に含んでいると思います。信頼」には相手の未来に期待を寄せる気持ちと、それに応えようとする気持ちの2つが存在します。つまり、「信頼」には双方向の感情が存在するとわたしは思いました。

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私が裏切ったことについて1番覚えているのは、昔、私が入っていたサークルで合宿がありました。サークルなので夜にはみんなでお酒やおつまみなどを食べながら談笑します。その時、私はお酒を買いに行く担当でした。場所はとても地方の方だったので、お酒はネットショップで注文しました。しかし、注文したにも関わらず、お酒は配達されませんでした。原因はネットショップの方にありましたが、その時サークルのみんなの期待を裏切ってしまったと思ました。逆に裏切られたことはいくつかあります。待ち合わせの時間に友達が来ない、貸したものが返ってこないなど様々です。このような経験から信頼とはなにかを考えると、私は信頼とは人とのつながりを円滑に構築するものであると考えました。しかし、信頼を築く同士は人間です。相手が失敗をするときもあれば、自分が失敗するときもあります。その時、信頼があるからこそ許せることの幅が広くなるのではないかと考えました。逆に信頼関係がない他人に、急に裏切られたりした場合、信頼関係がある人と比べてとても不愉快に感じる人が多いと思います。友達だからしょうがないか、と区切りをつけることができるのが信頼なのではないかと私は考えました。

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課題文で野村先生もおっしゃっている通り、世間ではよく「裏切られた」と言いますが「裏切った」という人はとても少ないように思う、ということを聞いて考えてみると、私も確かにそのように感じました。実際に自分で個人を裏切ろうとして裏切ったという経験が思いつきませんでした。しかし、裏切られたに近いと思うような経験があります。私が小学生のときに、近所で1年生から仲良くしている子が1人いました。その子とは1,2年生のときにクラスが同じで、3年生になりクラスが変わってからも登下校を一緒にしたりと仲良くしていました。その子の繋がりで、他の近所の女の子とも仲良くなり、5人ほどの集団で帰ることもありました。しかし、ある日なんの前触れもなく私だけがそっけなくされたり、避けられたりするようになりました。そこから一緒に登下校することもなくなりました。あとからわかった話なのですが、あとから仲良くなった近所の子が、私が1年生から仲良くしていた子やその他の子にも、私とは仲良くしないようにと言っていたそうです。大人になった今であれば、自分と仲が良い人に対して、そのような低レベルなことはしないと思いますが、小学生ということもあり、その子も言うことを聞かないと自分が仲間外れにされるのが怖かったのだと思います。しかし、今考えれば私はそのとき裏切られたと思いました。私は、その頃から、あまり人を信じられなく、簡単に信用しないようになったと感じます。この経験を踏まえて、『信頼』とは、その人の今までの言動などから信じて受け入れる『信用』とは違い、根拠や証拠はないけれどその人に期待して信じることだと考えました。『信頼』は未来を信じることで、『信用』は過去を信じること。私は、『信頼』を得ることよりも『信用』を得ることの方が難しいと思いました。

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私は、特定の個人を裏切ったことがあると思います。友人でしたが、とある一面を知ってから距離をとってしまったということから、相手は裏切られたという気持ちになったと思うので、その当時は裏切った感覚はありませんでしたが、相手の立場に立った時にそう感じると思ったためです。集団や組織に対しては、裏切られたことも裏切ったこともあります。集団で悪いことをしたときに自分一人を悪者に仕立て上げられたことが幼いころに一度だけあったことと、出し物をするときに期待以上の成果を出せなかったことから、裏切ったように思えました。それらのことから、信頼とは、相手にどれだけのことをしてもらったかによって信頼度合いが変わってくるのだと思います。良いことをすればその見返りとして、信頼という形で帰ってくるのではないかと私は思います。たとえば、一つの裏切りでもその度合いにもよりますが、ある程度の信頼関係が築けていれば、仕方ないとすむことはあるとは思います。信頼関係が築けていない相手からすると、それはかなりの打撃となり、その人に裏切られたという形になるのではないかと思いました。また、どれだけ知っているかということも信頼になるのかと思います。相手をよく知っているということはそれだけ知りたいとか勝手に覚えたみたいなこととなり、どのような形であれ、信頼につながるのではないかと思いました。

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私は、自分で相手を裏切ったという感覚がないのですが状況によっては嘘も裏切りに値する時があるのではないかと思ったため自覚は無いけど裏切ったことがあるのかもしれないと感じました。方便としての嘘や相手のためを思っての嘘は裏切りでは無いと思いますが相手からの信頼を裏切る内容の嘘はそのまま裏切りになるとも思います。そのため自分では思いやりを持った嘘でも相手がそれは裏切りだと感じれば裏切ったことになると感じ、たまに嘘をつく私は裏切りを行っていたのかもしれないと思いました。一方で私は、裏切られたと感じたことは結構あります。例えば、私は某通信教育を小学生の時に受けていたのですが、これをやれば頭が良くなるというような触れ込みをそのまま信じて、そのまま勉強したにも関わらずあまり成績が伸びなかった時はふざけんな、裏切られたと思った記憶があります。しかし、今思えば勉強法なんて人それぞれ違うので、その勉強法の良いところだけを吸収して自分に合わせることが必要だったので私にも非があると感じます。また、そのような経験から信頼とは双方が信頼しきっていることが望ましいが大抵の場合は考え方の違いなどの理由から信頼の度合が違うないしは一方的に信頼してしまうことがしばしばあるものだと考えました。そして、その度合いのズレが裏切りを感じさせてしまうのだと思いました。そのズレを埋めることができればより良い信頼関係が構築できると思いますがそれはなかなか難しいことでもあると感じました。

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私の裏切ってしまった経験は、オンラインゲーム上のものです。その経験から、「信頼」とは付き合いの時間と密度、そして相手の期待次第であると考えています。 私がやっていたオンラインゲームには「ギルド」というユーザー同士での特定の集まりを作ることで参加できるコンテンツがあるのですが、私はそのゲームで毎日のギルドコンテンツへの参加がノルマとされているギルドに参加しており、通話アプリを使うことでギルドのメンバーと交流していたりもしていました。 参加した当初はそのゲームを楽しんでおり、またギルドコンテンツも参加することによるプレイヤーへのメリットが多いものだったのでノルマの達成も苦ではなく、メンバーとの交流も円滑で信頼も得られていたように感じていたのですが、ゲームへのの興味が薄れ、コンテンツと通話への参加がまばらになってからそれが揺らいでいったように感じます。 時たま通話に参加した場合などの私への発言がだいぶ棘のあるものになっていたためです。 それからしばらくして私はそのギルドから抜けそのゲームもやめてしまったのですが、その時は裏切ってしまったと強く後悔していました。 以上の経験から、「信頼」とは付き合いの時間と密度、そして相手の期待次第であると考えています。

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私は特定の個人を裏切ったことはありません。ですが、集団や組織で裏切られたり、裏切ったことはあります。裏切られた経験としては新型コロナウイルスの影響によるSNS上でのデマが挙げられます。例えば、マスク不足が続いてた中で次はトイレットペーパーが品薄になると誤って情報が出たことによって、日本では大きな問題になりました。これだけではなく、給付金などが追加でまた10万円ほど給付されるというニュースを見ましたが、未だに白黒ハッキリしていないのでどうなのかわからないので裏切られたように感じました。次に私が集団や組織に対して裏切ったことはSNSを通じて、遊びなどの予定を当日にキャンセル(ドタキャン)などをしてしまいました。直接会うわけではないので、文や電話で断ることができるので決して良いことではないですが、断りやすいです。後から考えてみると裏切ってしまったと思いました。その経験から私の信頼とはインターネットの情報だけでは決して正しい情報ではないと思いますし、確実に人と対面で話すことで確信など情報を得ることが必要だと思います。また、信頼はそんなにすぐに得られるわけではないと思いますが、その人と付き合いの年数から信頼を得ることができると思います。

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私が特定の個人を裏切ったこととしてあまり思い当たらないのですが、おそらくこれも裏切りになるだろうと考えられることとして、予定を先着順ではなく個人の優先度を決めたことです。ある友達と夜に飲むだけの約束をしていて、その子はよく飲みに行く友達でした。その何日が後に何人かのグループでドライブに誘われたのですが、そこで先に予定が入っていた飲みよりもドライブの楽しみと普段めったに遊べない人からの誘いということで、ドライブを優先してしまいました。これが特定の個人を裏切ったことだと思います。次に、集団から裏切られたという経験としてはサークルのある友達から何月何日あたりにサークルの同じ代で飲み会を開いてほしいと頼まれました。私に頼んできた理由はすぐに動くし計画的に事を運んでくれるからということでした。私としては自分でやることだろうと思いながら一応仲のいいサークルだったので引き受けました。lineのグループにノートを貼りあまり反応がなかったので次は個人にラインを送りました。個人からの返信として多かったのは、バイトがあるという断りの理由と誰が来るのか聞いてくるものでした。これない人以外みんな誰が来るのか聞いてきたのでみんな同じ聴き方してくると返信しました。個人で動いてもなかなかことが進まなかったためイライラして計画した本人に聞いてみました。本人から帰ってきた返事は男ほとんど出席できないから自分もいかないというものでした。結果周りは他人任せの集団であって真面目に動いた私は馬鹿だったと裏切られたように感じました。これらからくる信頼とは個人間によって違ってくるものだと思うし、期待が大きければ大きなほどその期待が裏切られた時に失望が大きくなると感じます。本当に仲がいい個人間ならばちょっとした裏切りに腹を立てることもなくまた今度となります。あまり中が深くない人とのかかわりで嫌なことがあればいずれ信頼は築けないと私は思います。

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私は、過去裏切ったことも裏切られたこともないように感じていました。しかしちゃんと思い返してみると、小さな信頼を築くのと同じように裏切りも起きているのかもしれません。 私はマーチングバンドという団体競技をやっていた時、本番でケアレスミスをしてしまったことがあります。大会に向けてみんなが全身全霊で頑張ってきた中で起こしてしまったミスは集団に対する裏切りと呼べるかもしれません。しかし、このようなミスもその対象との繋がり次第では裏切りと呼んで良いのでしょうか。 例えば、友人と待ち合わせをしていて、九時に時刻設定していた時に、九時より前に来るのが信頼なのであれば、遅刻することは裏切りと言ってよいのでしょうか。しかし、その友人との間に信頼関係が既に構築されていて、遅刻しても許せる間柄である場合だと、果たしてそれは裏切りというのに相応しいのでしょうか。私は初対面の人との待ち合わせや大事な用事の際には遅刻をすることは基本ありませんが、気を許した友人との待ち合わせでは遅刻してしまうこともあります。私はこれを裏切りと思っていませんし、友人に同じことをされても裏切られたとは思いません。信頼があれば、信頼がない時に比べて裏切りと呼べるような行為に対して寛容になれるのかもしれません。信頼とは寛容さなように感じます。

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 私は誰かを裏切ったこともあれば裏切られたこともあると思います。よく小中学校の時にお菓子を持ってきてはいけないのに持ってきたり、学校にiPodなどを持ってきてはいけないと言われているのに持ってきたりしていました。これは学校のルールを把握し納得した上での行為であったので今思えば裏切りになるのではないかと思います。またそれに関して友人の誰かが関連してばれて怒られている場合、その友人が罪をすべて請け負うという形もありました。私に罪が被ることもありました。裏切りの中でも味方同士では信頼して仲間を道連れにすることはなかったので仲間内での信頼というものは築かれていったのだと感じます。基本的に学生の私が裏切ってきたものは学校がほとんどです。管理されている場合、管理者に対する裏切りは生まれやすいのかと思います。ただ組織や集団ではなく個人に対する裏切りはより生まれやすいのかなと感じます。個人間のやり取りの場合裏切りによる影響はその個人にしか出ないため、周囲の反発はあまり受けずに済みます。集合時間を決めて遊ぶ約束をして行かなくても怒るのはその相手だけです。噂として自分の評判が下がる可能性はありますが、基本的には個人間同士ですべて済むのです。私は個人間で裏切りというものをあまり体感したことはないのですが、基本的に信頼の裏に裏切りが成り立つのではなから信頼していない人に何かをされても裏切りと感じることはないです。私はあまり多くの人を信頼してこなかったので裏切りを感じることはありませんでした。  そのことから信頼というのは裏切りの可能性を考えた取引をせず、ある程度相手に身を預けることではないかと思います。自分の身にかかりうるリスクに対し相手に身を預けられるかを考えたときに迷わず預けられるのであればそれは信頼といえるのではないでしょうか。逆にこの人はこういうことをしてくるかもしれないと思う場合は裏切りを警戒しているのでしょう。信頼するラインは人それぞれで異なりますが、私は人をあまり信用しすぎずに生きていくことを好みます。

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私の友人に、ご飯を誘ったり出かけるのを誘ったりするとわんちゃんいける、行けたらいくといってよく来ない人がいます。しかし、人望はあり、男女問わずとても評判が良い人ではあります。私自身相談に乗ってもらったりとリスペクトしている友人でもあります。小さな裏切りの事例かもしれないですがここから信頼とは考えていきたいと思います。私は信頼とはその人の価値基準の一つだと考えます。行動や言動でその人の価値は常に変動し、行動を共にするかどうかその人の価値に基づいて決めると考えます。そういった価値基準の判断材料の一つとして信頼があると考えます。私の友人がよくする行く行くと言って来ない小さな裏切りは出かける約束をする際に(その友人と)期待値は下がると考えます。つまり確実に集まる人の頭数に入らずサブに数えられたり、人数を確実にさせたい時は誘われないなどが起きると考えます。ですが相談など受けたり人望の厚い一面をみると信頼度は高いと考えられます。信頼とは数値化できて裏切りの大小で減点数が付き、その数値の大きさで関わり方を変えたりしてるのではないでしょうか。たとえば低ければ裏切られた時のリスクが高い様な事はしなかったり、数値が高ければその様なことを考えず行動を起こせたり。信頼というのはその人の価値基準の一つであり、自分にとって裏切られた時のリスクを測るためのものさしになっている側面を持ち合わせていると考えました。

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私自身は人を裏切ったという認識はありません。そもそも私の認識では、裏切りというものは、きちんと書面で交わした契約を放棄する以外は成り立たないと思います。書面にて、「~ということをしません」といったのにもかかわらずしてしまって契約が破棄された場合にのみ、裏切りという言葉は適用されると思います。同様に私は組織に対しても裏切られたり、裏切ったと思うようなことは今までありませんでした。これは、私が肝に銘じていることなのですが、信頼とは、自分の中で勝手に「相手がこうしてくれるだろう」と期待していることだと思います。そしてその自分自身の中の思い通りの未来になるだろうということを信頼だと考えています。そのことから、世間でいう「裏切られた」とは、公式な誓約を交わしているわけではないのに、勝手な自分自身の思い込みに対して応えてくれなかったら、人は裏切られたと錯覚してしまうのだと思っています。例えばですが、プロ野球でファンの球団の選手がほかの球団に移籍する際に、「選手はファンを裏切った」と表現しますが、これはファンが勝手に「あの選手ならこの球団にずっといるだろう、いてほしい」という未来、願望が入った信頼をその選手に持っているがために、いざ思い通りにならないと「裏切った、裏切り者」と卑下している例があります。つまり、改めて言うと信頼とは、目に見えない個人が持つ暗黙の期待であると考えます。

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私が裏切ったと感じたことは私が中学生のときで、サッカー部に所属していたのですが、顧問の先生とは仲があまり良くなく、自分も含め何人ものチームメイトが嫌っていました。その顧問は少しのプレーのミスや学校生活や私生活の乱れに対してとても厳しく接してきていたため、まだ中学生であった私たちはこのようなことから顧問の先生と対立していくようになりました。ある日の練習で(個人的には)理不尽に怒られ、私を含めて5人ほどがやる気が無いなら帰れと言われました。そこで先生に歯向かいたい私たちは言われるがままに帰宅しました。しかし、ふと冷静になって今考えるとこの行動は先生だけでなくチームメイトも裏切ってしまっていたのでは無いかと感じました。そこで、日頃から乱れていた自分を正そうとしてくれていた先生は信頼してくれていたのだと思いました。信頼とは私は積み重ねがあってこそだと思います。どんなに大きな信用につながる出来事が1つあっても100%信頼することはできません。そのため、あの時中学生であった自分は怒られたからといって帰ってしまうより、謝罪し、反省したほうが先生やチームメイトとの関係が良くなり、大きな利益と信頼が積み重なっていったのではないかと思いました。

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私は裏切りと言う行為をしたこともされたこともあります。私自身にとっては軽いもので裏切る気持ちはなかったけれど「裏切る」という行為であることは変わらないという行動をしてしまっていると思います。それはバイトのシフトをキャンセルしてしまう事です。私のバイトはシフト制ではありますがシフトの人数に下限も上限もないため融通が非常に効きやすいアルバイトです。そのため私は良くないのですがシフトを提出してもやっぱり時間を変えたいやこの日はいけないなどというワガママを社長によくいってしまいます。そのような一度決めたことを変えると言う行動は社長からみれば「裏切り」と言う行為であり信用がなくなってしまうと考えます。裏切る、裏切られらと聞くと大きな損害や人の気持ちのイメージが強いですが、このような予定変更というものも立派な裏切りであるのではないかと私は思っています。裏切られたという経験も友達の予定変更やキャンセルで感じます。体調不良や親族の急用であればそうは感じないのですが、寝坊や寝バックれなどはすごく裏切られたと感じますし、次もそういうことがありそうだなという印象になってしまいます。裏切る、裏切られるということから信頼というものの原点であり頂点というのは約束をきちんと守っている行動をするということだと私は思います。

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私が最近の大学生活で個人で裏切られたと思うことはたくさんあります。その中でも、ゼミで裏切られたと思うことが心ききました。私は経済系のゼミに所属しており、また先生から指名され、ゼミ長でもあります。ゼミ長ということで、先生からの指示の伝達やイベントの運営、企画などは主に私が担当しています。その中でこの前ゼミのイベントがあり、そこでも企画、運営、日程調整を全て一人でやり、当日になり、出席だったゼミ生からこれないと連絡があり、人数が少なくなり、金額も狂い、企画も人が集まらず本来のやりたいことがあまりできず、とても成功とは言えないイベントになってしまいました。当日ドタキャンがあまりにも多く、裏切られたと思いました。一人や二人の個人ならまだしも、大人数にドタキャンされたので、ゼミそのものに裏切られたを感じました。大学生になり、それまでとは変わり、個人の自由がきき、自分でやりたいこと、やりたくないことを選択できるようになり、約束を守れなくなっている大学生はたくさんいると思います。私はこの経験から、信頼とはその人が周りに対して積み重ねて来た物であり、その信頼を築くのは大変だけど信頼を壊すのは一瞬だと思いました。

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私は、信頼とは信じて頼りにするということがまず第1だと思います。信頼と言うのは、1時間や1日だけで成り立つものではなく、たくさんの時間をかけて成り立って出来ていくものだと思っています。また、似たような言葉で「信用」とありますが、信用は過去の実績に基づいて、証拠によって信じることであり、信頼は未来の期待のことであると言われています。 私自身は、集団で裏切りをしたこともされたこともありませんが、どの環境でも信頼できる人とそうでない人は分かれます。私が信頼できる人に共通している点は、まず自分と価値観や考え方が似ていると感じる人です。趣味趣向が似ていたり、話も合うので一緒に居て落ち着くと感じるからです。もう1つは、仕事が出来て責任感もあり、スケジュールもしっかりと守れる人です。こういう人はどこから見てもかっこいい人だと思うし、自信のある人なんだろうなと思えるからです。 また、人のために行動できる人です。相手のために何ができるかを、常に先を読んで周囲を見渡せる視野の広い人はどこに居ても信頼されるし重宝されると思います。 しかし、周りにいる信頼されている人は、自然と人に頼ることもできていると感じています。信頼と言うのは、一方的なものではなく相互作用で成り立っているものだと改めて感じています。

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特定の個人を裏切ったことはないが裏切られた経験はある。それは、約束してたのにも関わらず連絡もなしに集合場所に来なかったことです。その時に仲良い友達だとしても不快な気持ちになるし、裏切られたと感じてしまったのです。その経験から信頼をしていたとしてもその信頼は簡単に壊れてしまうほどの関係にしかならないということだと思います。誰でも自分に嫌なことが起きるような人を身近に近付ける人はあまりいないと思います。だからこそ、自分の周りに信頼出来る人は数人しかいないと思います。裏切られるようなことをされたという人はあまりいないと思うが、しかし、実際に裏切られている人は少なからずいるのです。自分はその経験があるからこそ、人との関わりをあまり持たなくなってしまったのは事実です。自分は友達との信頼関係を築くにはとても時間がかかってしまいます。もし信頼していた人に裏切られてしまったらどうしようとフラッシュバックが起こってしまうからです。だからこそ、信頼とは形だけの物であり、本当に心から信頼出来る人は2、3人だけだと私は思います。その信頼出来る人こそ、自分を最後まで支えてくれる人なのだと思います。信頼とは、自分を支えてくれる力になる物だと私は思います。

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私が個人を裏切ったと感じたことは秘密にして欲しいと言われたことをつい言ってしまったことです。中学生時代、男子の中で好きな人について話してその後日、つい口が滑って言ってしまったことがあります。その場には私と好きな人を言ってしまった人とほかの男子がおり、私は好きな人について話したメンバーと違う人がいることに気付かずその事についていじってしまいました。その時に少しケンカになってしまったことがあります。また、組織に対して裏切ってしまったことはアルバイト先に対して、コロナウイルスの影響で実家に帰っているという嘘をついて今年の3月くらいからシフトを入れていないことです。お弁当屋さんで働いているため、そこまで影響を受けていないからシフトに入って欲しいとの事でしたがそのように嘘をついて入りませんでした。元々、辞めようと思っていたアルバイトなので、このまま事実上辞める状況になればいいと思って嘘をつきました。シフトを入力するのはインターネットのサイトで行われるのですが、先日確認したところ、IDを入れてもそのサイトに入ることが出来なくなっていました。今となってはこのままではまずい気がするので卒業のタイミングで挨拶に行こうと思っています。 私はこのような経験から、信頼とは約束や期待を守ることであると思います。約束を破る人間は相手を不快にさせることが多くなります。情報漏洩や期限を守らないなどは信頼を勝ち取るのは難しいことであると感じます。期待は能力が高い人間やイエスマンに対して期待をすることが多い。そういった人がミスをしたり断ったりする時に裏切ったと感じることがあります。このように誰がするかによっては裏切りと感じることもあります。

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 経験を書く前にまず、「裏切り」の定義をインターネットで検索してみると、「味方を捨てて敵方についたり、約束・信義・期待に。背いたりすること。」と出てきました。この定義で考えると私は裏切った経験があります。その一つに約束していた件があったのに関わらず、寝過ごしたことで相手から怒られてしまったことがあります。これを相手側の視点に変えてみると、相手は私が「この日はこう動く」と思い込み、信頼しているからこそ、「裏切り」に対してネガティブな感情になってしまうのです。私の寝坊するという行為は客観的に見てもいいものではありません。しかし、相手側も私に対して怒ることは本末転倒です。なぜなら「裏切り」という行為は相手が知らない私の一面が見えただけだからです。だから信頼というものは安易にするべきではなく、期待通りに動くとは限らないという前提を持ち、その人の性格やポテンシャルを見極めたうえでなされるべきものだと思います。  以上が私の「裏切り」と「信頼」に対する考え方ですが、決して自己肯定しているわけではありません。人間の本質とはこういうもので、その例がたまたま自分にあっただけです。勿論反省をしていますし、相手をネガティブな感情にさせないように努力はしています。

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私が今まで経験してきたことの中で裏切られたと感じた事はまさに今私が直面している大学生という存在です。大学生になるまでとなってからでは大学生に対するギャップをすごい感じてしまって、「あー、大学生ってこんなもんなんだな」という感情でいっぱいになってしまいました。入る前に聞いていた大学生活はもっとキラキラしたものなのだと想像していた私ですが、実際に入ってみると大学内に居るいろんな人たちを見かけてこんなに適当な人間が多いのだなと裏切られた気持ちになりました。そこから私は大学で出来た友達はみんなどうせ上辺だけの付き合いというレッテルが自分の中で貼られてしまいがっかりしました。もちろんイメージのまま期待して入ってしまった私が悪いのですが、私自身としてはとても悲しい気持ちです。また、大学というだけあって色々な場所から通い詰めてる人がいるわけですが、私のように栃木のような遠い地元から通っている人と一人暮らし、もしくは家が大学から近いという人との差を見ると勉強に取り組める時間や遊べる時間、バイトをする時間といった様々な事が制限されてくるわけです。もちろんそんな言い訳が通用するわけもないのですがそういった事も生徒は一人の人間としてしか捉えてくれないのでがっかりしてしまいました。そういった沢山の事を含めて私はある意味で裏切られたと捉えてしまったのです。こんな経験から私は信頼とは極端な意味で自分自身だけなんだと思います。自分は自分の事を一番に理解しているわけで、自分を裏切るという事は出来ません。だから信頼とはそういう事なのだと私は思います。

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私は裏切るようなことをしたことがあまりありません。今、思い返すと一回だけ裏切られたと言われたことがあります。去年の成人式の日、以前から喧嘩していた父親から「俺はこんな娘に育てたつもりはない、裏切られた」と言われました。今はもうなんとも思いませんが、当時は衝撃的でした。以前芦田愛菜ちゃんが作品のテーマの“信じる”ことの意味を聞かれて「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ」と回答していたことがとても印象に残っています。私はこれを聞いてとても腑に落ちました。相手が裏切ることをしたのではなく、自分が勝手に予想していた期待を相手が大幅に下回ると裏切られたと感じるのだと思います。私の父親も自分が教育にかけてきた時間や熱量に比例する期待を持ち、実際の私がその期待を下回ったのではないでしょうか。別に私は父を裏切ったわけではありません。期待していた方が悪いと心の中で思っています。このような経験や考えを知り、信頼とは相手の期待と同じ、もしくは上回るように努め、相手の期待に応えていくものだと思います。信頼されたいのであれば、相手はどのぐらい私に期待しているのだろうかと考え、それに見合うように努力し、応える、これを繰り返す必要があると考えます。今の私は父の期待レベルを知ろうともしていません。あいつは信頼できないと言われる理由がわかりました。

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私は、友達を裏切ったことがあります。それは、小学校の低学年の時の話なのですが、ある日、仲の良い友達A君と放課後に遊ぶ約束をしていました。そして、その日のうちに、またまた仲の良い友達のB君から遊びの誘いを受けました。いわゆるダブルブッキングという状況になりました。その時私は、特になにも思わず、両方呼んで楽しく大人数で遊ぼうと考えていました。そして放課後になり、公園に集合した時に、A君とその友達達とB君とその友達達が不機嫌そうな顔で私のことを待っていました。それは、なぜかというとA君とB君にお互いのことを伝えていなかったので、なんでお前らがいるのか?と軽く揉めていました。その時に私と遊ぶ約束をしているという事が重複しているということにお互い気づき、理由を聞くために私がくるのを待っていたという事でした。お互いに、お前はどっちと遊ぶのかと問い詰められ、両方ともと遊びたい旨を伝えたのですが、どちらかを選べと言われました。なぜならその時、たまたまA君とB君は、喧嘩していたらしく、仲が一時的に悪くなっていたました。 結局のところ、私は、選べずに迷っており、それに痺れを切らしたB君が裏切り者とおちゃらけた感じで私に言ってきました。そしてB君達は、違う公園に遊びに行き、最初に約束していたA君達と遊びました。それ以降、数ヶ月、私のあだ名は、裏切り者という名前になってしまいました。仲間外れとはいきませんが、それに近いことをされました。結局、両友達に謝り、その数ヶ月後に楽しく遊ぶ、いつもの関係に戻りました。 この経験から、私は、約束事はしっかりと守るようになりました。なぜなら約束を破るということは、自分の信頼や相手の時間や心遣いを台無しにしてしまう行為だからです。まだ小学生低学年だったから笑い事で済んだものの、社会に出てからこのような事をしてしまったら、私の信用は、ある程度回復することはあれど、完璧に回復することは、ありません、加えて、一度は裏切った人とレッテルをはられてしまいます。このレッテルをはがすことは、ほぼ不可能だと思います。仮に信用をある程度回復したとしても、少しでもミスをしたり、それに近い事をすると、やっぱりそういう人とみられてしまいます。少しのミスも許されなくなってしまいます。 人間は一度裏切られるとその人のことをあまり良い目でみれなくてしまいます。私もある友達に、約束を破られたり、時間を守ってもらえなかったりと色々あり、その友達のことを、そういう奴だという前提から見てしまうようになりました。いつも見ているわけではないのですが、なにか遅れて来たりしたり、休んだりしても、心のどこかでは、嘘ではないかと疑っている自分がいます。友達という立場があるからこそ、今の関係を受け入れることはできますが、ビジネスパートナー等の仕事の関係になると話は別だと思います。一度、決定的なミスをしてしまうと、自分の責任だけではなく、会社のミスになってしまうからです。チームスポーツでも同じことを言えます。試合会場等で、ゴミを置いていったり、物を壊したりして、謝罪もせずに帰ったりするといった行為をすると、行為を行った人だけではなく、そこのチームは、治安が悪いという印象になってしまいます。そしてそれは、何年経っても消すことはできず、ずっと付き纏ってきます。一回の行為で信頼というものは崩れ、また築くとなると多大な労力と時間が必要になります。私が思う、信頼とは、相手に親身に寄り添い、共に何かを成し遂げたり、協力したりと、相手にとってプラスな関わりをすることで生まれる証みたいな物だと思います。そして、その信頼というものは、壊しやすく、築きにくいという点もあるので、相手との信頼関係を続けていきたいのなら、相手の事を裏切る真似はせず、親身に付き合っていかなければならないと私は考えました。

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特定の個人を裏切った経験はあります。SNSの少人数のみしか見れないようにしてあるアカウント、通称裏アカウントみたいなもので書かれていた友人の悪口を本人に伝えて、仲違いをさせたことがあります。SNSの裏アカウントは不特定多数に見せたくないから少人数の人にしか見れないように設定してあり、その内容をその人のフォロワーではない人に見せるのは裏切り行為になると考えています。当時わたしは、その裏アカウントで繋がっていた友人が嫌いで、その友人が裏アカウントで書いていた悪口や内容をスクショなとで言われていた本人に見せていました。今でもわたしが裏切ったその友人とは仲直りできておらず、その友人たちもできていないです。そのほかにも裏切りに当たるかもしれないと言うことでは、友人の好きな人を好きになったと伝えずに付き合ったことです。1年くらい好きだと言う相談に乗り、仲を取り持っていましたが、その途中自分も好きになってしまいました。しかし、それを友人に言えず、付き合い、後々噂で友人にバレた時は、とても気まずい感じになってしまいました。集団の組織に裏切った、裏切られたと感じたのは、あまりないです。自分自身裏切ると言う行為は分かっているのですが、裏切られたと感じる感覚がわからないので、裏切られていても気づかないで過ごしているような感じがします。

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私が特定の個人を裏切ってしまったと感じたことは、私はスポーツをやっていて、そのスポーツの大会の際に期待され、大会までの期間に様々なことをサポートしてもらったり、指導してもらったりしたのですが、本番の大会では良い成績を残すことが出来ず期待に応えることが出来なかった時に特定の個人を裏切ってしまったと感じました。相手が裏切られたと感じているかは分かりませんが、私のために様々なことをサポートしてもらったり、指導してもらったりしたので、良い成績を取りその成績で恩返しすることが出来なかったことが裏切ってしまったと感じる一番大きな理由です。しかし、その良い成績を取ることができなかった大会の後も次の大会に向けて様々なことをサポートしてもらったり、指導をしてもらいました。その結果、技術面やメンタル面はもちろんそれまで以上に良い成績を取り恩返しがしたいという気持ちになり、練習に対するモチベーションが上がりました。そして良い成績を取ることが出来ました。 このような経験から私が考える信頼とは、裏切られた側は一度裏切られてももう一度チャンスを与えたり、協力したりして裏切った側はそのチャンスや協力を必ず良い方向に持っていき、恩返しをするというようにお互いが一つの目標に向かって長い間努力することによって築かれる関係が信頼だと考えます。

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私はあまり自分で裏切った思うことよりも相手側が裏切られたと思うような事をしたことはあります。単純な友情というか友達関係の絶縁です。一方的に断ち切ったため相手からしたらなんなのか分からないでしょう。しかし私からしたら、その前に相手側にすでに裏切られたと思ってはいます。相手が裏切ってきた、私からの信頼をなくしたから自分も裏切るということです。 また集団や組織に裏切られたということはあります。アルバイト先でパワハラをする社員がいたのですが、上の人に何回も報告しても改善せず、パワハラを受けた多くのアルバイトが辞めてしまいました。僕もその1人です。アルバイト個人からしたら会社が信用できずに裏切られた気持ちになりました。おそらく会社側も無断欠勤を繰り返す私や他のアルバイトに対する信頼も徐々に無くなっていっていると思いました。 これらのことから、裏切りと信頼とは相互に関係し合っており、裏切りが有れば信頼がない、信頼が有れば裏切りはない、と必ずどちらかが存在しているのだと私は考えます。 裏切りは信頼を無くす事によることでしか発生せず、信頼の欠如により離れていく事を指すのだと思います。つまり逆説的に考えて、信頼がとは裏切りをさせないということに繋がっていくということだと考えます。そして信頼は絶対に失ってはならないものだということは言うまでもありません。

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自分にとても仲の良い友人がいて、その友人に付き合っている彼氏がいました。そして私はその友人と友人の付き合ってる人とよく3人で会って、ご飯なども頻繁に行く関係でした。例えばそのわたしの仲の良い友人が自分以外の異性の友達でも彼氏と会ってはいけないと思う人でした。その場合に、その友人の彼氏がわたしに、そのわたしと仲のよい友人のことについて相談したいから2人で会ってほしいと言われるとします。その彼は特に私に下心などなく単純に私と仲の良い友人、彼にとっての彼女の誕生日プレゼントをどうすればよいかなにが好みかなどを聞くために私を誘ってきました。この場合、きっと事が起こった後には私の友人はわたしにも彼氏にもきっとなにも怒ることなく、逆に喜んでくれると思います。しかし、彼氏にとっては彼女にサプライズであるためわたしも彼氏も2人て会うことは事前に友人(彼女)に報告することはできません。そうなった場合、私も彼女(友人)も信頼しあっているけれど友人はどう思うのだろうと不安でした。もしかしたら私であっても「裏切り」になってしまうかもしれないと思いました。実際、彼女にわたしたちがあっていたことは知られず、誕生日の日にサプライズが終わったあと事後報告をしたら、友人は「逆に協力してくれてありがとう」と喜んでくれました。信頼とは素晴らしいなと思いました。

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信頼とは自分の期待だと思います。その人のことを信じようと思いますという言葉をけっこう使うと思います。それがどういう意味なんだろうって考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかなと感じます。だからこそ人は裏切られたとか期待していたのにとか言いますが、それは、その人が裏切ったとかいうわけではなくて、その人の見えなかった部分が見えただけであっただけだと思いました。 信じると言うことについて、以下のようなことを聞いたことがあります。その見えなかった部分が見えたときにそれもその人なんだと受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけどその揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないか。まさしくその通りだと思いました。

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私が個人を裏切ってしまった経験は秘密にしておいて欲しいと言われたことをつい言ってしまったことです。秘密話をしていたメンバーに後日別の人が加わった状態で、その人も一緒に秘密話をしていたと思い込んでおり、その話の中で言ってしまったことがあります。その時に、そのメンバーで少し揉めたことがありました。 私が集団を裏切ってしまったことは、文化祭当日、売り場をずっとサボっていた事です。私の学校は模擬店だけをやる文化祭で、クラスも学年もバラバラで売り場を分けます。私は会場設営をする係の係長をしていました。会場設営係の人は当日、様々な売り場に派遣されて仕事をします。私は係長という立場を利用して、仕事してくると言ってずっとサボって文化祭を楽しんでいました。係長は普通の店員とは違うネームプレートをしているので誰もサボっていてもサボっていると思う人はいませんでした。おかげで楽しい文化祭になりました。 これらの経験で私は信頼とは嘘をつかないことだと思いました。秘密にするという嘘をつくこと、別の仕事をするという嘘をつくことで信頼ということは無くなっていくのだと思います。また、期待を裏切るという言葉もあるように、期待されている人間が期待外れのことをすると裏切られたと言う人がいます。誰が何をするかによっても裏切るという行為は違うものになるものだと考えます。

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私が記憶している限りでは、誰か、特定の個人を裏切ったという記憶はありません。しかし、裏切られた経験はあります。まず、個人の話でいうと、親友と呼べるほど仲良くしている子に映画のDVDを貸した時のことです。私がお気に入りのDVDで友達が見てみたいというので、喜んで貸したのですが、1週間ほどして貸したDVD受け取り、家に帰ってDVDを棚にしまおうと袋から出したらDVDの入れ物がぼろぼろでした。ディスク自体に傷がついたわけではないですが、自分のものでもすごく大事に扱っていたし、友達を信頼していたので、もし傷をつけてしまったのなら言って欲しかったので、すごく裏切られた気持ちになりました。その子は普段は考え方がすごく私と合うし、友達と喧嘩したりすることが好きではないので、問い詰めたりはせずに今も仲良くしていますが、もう何かを貸すのはやめようという考えになりました。この出来事があってから、私の中で信頼するということは、相手の全てを信用することではなく、ちゃんとその人の性格や価値観をみてその上で付き合うことだと思うようになりました。また、他にもあります。私には好きなアイドルがいて、10年以上応援してきていました。しかし、そのアイドルは突然アイドルを辞めました。私は、その人から「一生アイドルしていきます」って言葉をたくさん聞いていたので、本当に裏切られた気分になりました。でも好きな人は嫌いになれず、アイドルではなくなってもずっと応援してしまいます。その出来事があってからもそのアイドルに対する信頼はかわりません。しかし、応援の仕方は少し変わりました。このように、私は、信頼の形は相手によって変わってくるものだと思いました。

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私が一個人として特定の人を裏切ったと考えるような行動や言動は、思いつく限りではないです。また、集団や組織に対して裏切られたと感じることについては、自分との直接的な関係性を持つものではないけれども、自分が応援しているスポーツチームが良い成績を残せなかった時には裏切られたと感じることはあります。このような経験から信頼とは期待に応えられたときに生まれるもので応えられなかったときに裏切りという感情が生まれるのだと思います。また、信頼の大きさや裏切られたときに感じる不信感の大きさは、期待の大きさとそこに対する応えた回数や応えられなかった、答えてもらえなかった回数により変わっていくものだと考えています。また、この期待に応えるというところを深く考えていくと実際の人と人のかかわりの中ではわかりずらい場面も存在する。自分の考えにはなかったけれどその行動をしてもらったことによって自らが助けられたりした場合にも期待に応えてもらえたことと同じような判別をして信頼につながっているのではないかと考えます。そこには、潜在意識の中で誰にでもどこか助けてもらえるとありがたいという期待を持っているのではないかと感じました。

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私は中学生の時に裏切ったこととして、野球のクラブチームに所属をしていてチームを変更しようとしたことがあります。チームとしてやってきたのに個人の感情で変更しようとしました。結果的に変更をすることはなかったのですがその時の心情として身勝手な行動をとろうとしてしまったこと、裏切りの気持ちが芽生えました。私はより高いレベルを目指して強いチームに行こうとしました。この事はチーム内の人に口外することはなかったのですがこのことは改めて信頼問題に関わってくると感じました。お世話になった人達へ失礼なことだと思うし、私だけではなく家族に対しても信頼が失われてしまうと考えました。信頼とは目先のことに囚われずに自分の軸を持っていない人に対して失われていくものだと感じました。自分の軸を持っていないことによってネガティブ思考になりやすくなりますし、ネガティブ思考が働くと自分にプラスとなることにしか目が向かないと感じます。そして軸を持った行動をすることによって相手の気持ちを考えているのだなと感じとられ、信頼へ繋がるのではないでしょうか。信頼を無くすことはかんたんなことですが、作ることには時間がかかると思います。そして自分1人の問題ではなく色々な人に関わってくると思います。

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私は今回の講義を聞き、裏切りよりも裏切られた方が印象が強いため人は裏切ったと思うことが少ないことが改めて分かりました。以前私がネットワークビジネスに勧誘された際、数十万円を期日までに振り込むよう指示されたことがあります。その場では、相手の威圧感に飲まれてしまい支払うことに合意してしまったが、詐欺紛いであると疑っていたため結局期日までに振り込むことはしませんでした。この経験から私は相手の集団利益よりも自分の利益を選んだと言えます。結果的にこの行為は裏切りと言えると講義を聞き感じました。授業の最後で触れられていたいじめを見て見ぬふりする裏切りを以前私が経験した裏切りは同じ裏切りでも後者は必要な裏切りだと言えると思います。 私は人と人とのコミュニケーションか複雑化され大規模で匿名性が高い現代社会において法的圧力やセキュリティシステムだけでは裏切り者を抑えることが困難になっていると学びました。相手を信頼するということは物的証拠がなく無条件に信じて相手を頼ることであり自己責任いわば自分の判断で信頼しなくてはなりません。先ほどの私の経験から、自分が裏切り者になる可能性もあり裏切りになっても良いという考えを相手に持つことで初めて信頼できると言えるのはないかと考えました。 つまり信頼と裏切りは相反しているものでなく、併存していると思いました。

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私は「裏切った」、「裏切られた」と感じた事はありませんが、裏切ってしまったかもしれないと思った事はあります。それは私が所属している部活動でのことです。集団の中では信頼関係がとても大事だと思います。信頼関係があるからこそ、組織がうまく回ると思いますし、チームの一体感が出ると思います。私がチームのみんなを裏切ってしまったと思った出来事は、試合でのことです。団体戦で、何人もメンバーがいる中、出場できる数名に選んでいただきました。しかし、私は試合に勝つことができず、期待に応えることができませんでした。応援してくれてる方々や勝てると信じて私を起用してくれたチームのみんなを裏切ってしまったと、苦しい気持ちになりました。信頼を得るには毎日の練習に休まず、全力で取り組み、努力する姿を見せ続けなければなりません。一回何かチームの名前を汚すようなミスをしてしまったら、その信頼はすぐに崩壊します。私の体験からは勝負の世界にいる上での信頼関係の築き方ですが、それ以外にも信頼関係は必要だと思います。チームを支える側の一員としても、この人にだったらこの悩みを言っても大丈夫だな。受け入れてくれる、理解してくれるという信頼がなければなかなか深い話をすることはできません。また、恋愛関係についても、何年もお付き合いをしていて、別れる時はどちらかが裏切られたと思うことが多いです。それは何年もかけて何日間もかけて、相手を信頼して話してきたことや絆があったにも関わらず、その思いを裏切ったということになると思います。信頼とは行動で示しながら、人の心と心のつながり、関係性だと思います。人の心をよむことは難しいですし、簡単に信頼関係を築くこともできません。それを行動と自分の考えを伝え合い、お互いを理解し合うことで、本当のその人の思いを探り出し、自分も打ち解けていくことが信頼だと思います。

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私が覚えている限りで私が誰か特定の人物を裏切ったことはありませんが、確かに「裏切った」と言う人も見たことがないため知らず知らずのうちに誰かを裏切っていることはあるかもしれません。そう考えると授業内でいう「集団規範に従わない者」である教授に課題を提出せずに単位を落とした私は両親と教授に対する裏切りを行ったことになるのでしょうか。いじめた人がそれを忘れてもいじめられた人は永遠に忘れない、という言葉と似たものを感じます。ですが、私は逆に他人から裏切られたこともあまり記憶にありません。「裏切り」という行為は信頼という前提のもとに成り立つものだと私は考えており、私自身誰かを完全に信用することがないので裏切られたという感情を抱くこともないのだと思います。完全に信頼している人間はこの世に自分の家族しかいないため、もし家に帰って両親が借金を作って夜逃げしていたりそもそも家がなくなっていたりしたらそれが人生で初めて裏切られたということになると思います。以上を踏まえたうえで私が考える信頼とは損得勘定や交渉などを度外視して無償の愛を注げる相手に対して抱く感情だと思っています。もちろん、家族が裏切らない保証などどこにもなく実際に家族に裏切られた経験をもつ人も少なくないと思うのであくまで私が経験則で考える信頼です。よく聞く「信頼関係」という言葉は所詮形式的なものに過ぎないと考える私には扱いにくい単語であるため、今後の人生で口にすることもほとんどないと思います。

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私は、特定の個人に対して裏切ろうとして裏切ったことはありませんが、結果的に信頼を裏切るような形になってしまったことはあります。どういう時かというと友人と約束をしていたのですが、私が約束の時間を間違えていて、遅くなってしまったことがありました。こういう場合は、私は意図的に約束を反故にしようとしていたわけではありませんが、友達は自分が約束通りに来るだろうと信頼してくれていたのを裏切ってしまったことには変わりありませんでした。また、個人に対してではなく集団や組織に裏切られたと感じたことですが、一度裏切られたと感じたのは、神ゲーを作り出した会社が新しいゲームを出すというので、期待していたのですが購入してみたらクソゲーということがありました。発売促進のPVなどはめちゃくちゃにいい出来だったので裏切られたと感じざるを得ないような状態でした。以上のことから、私は信頼とは他者から他人に対するイメージの押し付けであると思います。もちろん、押し付けとは言いますが友達が私に対して抱いていたイメージは私が作り上げたものであることも事実です。しかし、「あの人ならちゃんと来てくれる」「あの会社が出すゲームなら絶対に面白い」のような感情は客観的なイメージではなく主観的なイメージであると思います。このことから、信頼とは他者が他人に対して作り上げたイメージであると考えます。

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私は自分の人生を振り返って特定の個人を裏切ったことは無いと思います。「裏切られた」に近いことを感じたことを高校生の頃にあります。私はとある部活動に所属していて、そこで友達を作り共に切磋琢磨して活動していました。しかし、2年生のある日に私は諸事情で部活動を退部することになりました。辞めてから数日は普段通りだったのですが、時間が経つとほぼ喋らなくなってしまいました。私個人としては仲がいいと思っていただけに少しショックが大きかったです。その後大学生となった現在でも会話はしてないです。逆に高校生から今までずっと頻繁に連絡を取り合う友達もいます。そこで私はこの違いは何なのかと考えた時あることに気づきました。それは、信頼というものは立場や地位などが変わっても変わらず接してくれているかどうかの違いです。人間は相手の立場によって態度を変える生き物です。(目上の人には敬意を示す)そのため、もし社長だった人間が倒産などをして普通の人間になってしまうと、大抵の人は離れていきます。しかし、そんな危機的な状況でも協力してくれる人が真に信用できる人ではないのかと私は思います。

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私は裏切るという経験より、裏切られたことのほうが多いように感じます。しかし、これは多くの人が思っていると思います。この世のすべての出来事で裏切ったことと裏切られたことは同じ数にならなくてはおかしいと思います。多くの人にアンケートを行ったとして、裏切ったことを+とし、裏切られたことを―ととらえた場合、おそらく圧倒的に―のほうに結果が傾くでしょう。私が感じるに裏切った人は自分自身では裏切ったと感じていないからだと考えます。私が小学生でクリスマスプレゼントに何をサンタさんからもらうか、友達と決めているときに、友達と一緒のゲームを買おうと約束していました。しかし、家庭の事情により私は買ってもらうことができませんでした。その時の私は友達に対して申し訳ないという気持ちになりましたが、自分の意思は伝えたけどそれがかなわない維持上であったからしょうがないなという考えになりました。そのため、私が裏切ったのではなく、家族のせいにしていました。よって、友達は―が増えましたが、裏切った側の+はうやむやになり、それはないものとして現れます。裏切った人というのは裏切るという行為に対して、自分だけが悪い場合でもその他の人が関係していた場合にはそのほかの人に責任転換を押し付け、裏切ったという事実はしょうがないと考えているのだと思います。

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私は、好きなバンドのライブに行くのが好きです。あるバンドのライブに、友達と行こうと思い、2枚でチケットの抽選に申し込みました。結果は外れてしまい、それでも私はどうしても行きたかったので、応募したのが外れてからすぐに、他の人から譲ってもらう形でチケットを私と友達の分で2枚探していました。しかし、1枚しか見つけることができませんでした。私はとても悩みましたが、友達に内緒で私ひとりだけでライブに行きました。本当は2枚見つかるのがベストでしたが、友達を裏切る形になってしまいました。でも、友達はチケット探してる様子もなかったしそんなに行きたい訳ではなかったのかもしれない!と私の中で罪悪感を薄めるような言い訳をたくさん考えて、自分の裏切りを正当化しました。逆の立場だったら、とても悔しかったと思います。 集団や組織で裏切られたことといえば、コロナのせいでもありますが、アイドルが春に延期したライブを夏に行う、という時に、開催のギリギリまでライブの宣伝をしていたのに、結局は中止になったことです。運営はコロナ対策もバッチリにしてライブを行います!と言っていたり、演出や衣装も春以上に気合を入れています!とメンバーも発信していたにもかかわらず中止になったので、私をはじめファンはとてもガッカリしました。私たちファンが知らない裏側で色々あったり協議した結果だと思いますが、とても残念でした。その後、運営側は、中止になった経緯や詳細を発表せず、淡々とチケットの返金についてのみしかアナウンスせず。不信感を覚えてしまいました。 信頼とは、まず嘘をつかないこと。次に誠実な対応を常にできているかどうかではないかと私は考えます。

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