2020-12-02

情報倫理とセキュリティ2020後期10投稿集

情報倫理とセキュリティ2020後期10

54 件の回答

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応答

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1. 今日は国際バカロレアの「知の理論」と、その元になったバカロレアの哲学試験に至るフランスの哲学教育について学びました。今のところ、こういう科目は日本の大学には存在しません。いわゆる教養教育とかリベラルアーツとしてばらばらっと並べてあるだけです。おそらくみなさんはこれまで多様な科目を捨ててきたでしょう。その欠落についてあなた自身はどう考えますか。500字以上。ラジオトークのように「私」を主語にして「ですます調」で書いて下さい。締切は2020年11月26日午後11時30分。 https://www.econorium.com/2020/11/10.html

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応答

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私の考えでは、仕方のないことなのではないかと思います。もちろんすべての科目を拾い切り、すべて自分の中に吸収することができれば、できることに越したことはないとも思います。しかし、一般的に見て、「この科目は必要、この科目は不必要」というように断捨離というわけではないですけども、本当に必要かどうかを見極めた結果、今の自分がいると考えるとまあ納得がいくという感じだと思います。私が思うに哲学は、専門的な知識だと思います。それはつまり、一般的に見て、絶対に必要と思われにくいと考えられます。そのため、義務教育の中で哲学という科目を入れたとしても、少しかじる程度だったり、パラパラ読みで資料を軽く読む程度だったりで終わってしまう可能性が高い傾向にあると思われます。だからこそ、本気で哲学を学びたいという人は、大学や専門学校などで、その路線に進むと心に決めて学んでいくしかないのではないかと思います。小学生の時に道徳という授業は存在しましたが、樹形図を想像して考えると、その道徳という科目につながった先が「知の理論」の中にある「正義、欲望、存在と時間」のようなものだと思います。つまり、私たちが義務教育で学んできたことは、「知の理論」に結びつけることができるのではないでしょうか。私はそう考えます。

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日本には哲学の教育がないのはこの国の昔の歴史にあります。この日本という国は、幕末の時代に世の中は帝国主義にあって、その時の国は植民地になるか侵略してくる者に対抗し独立を守るという二択しかありませんでした。その時の日本は鎖国状態にあり、まわりのアジアの国は次第に欧米諸国の植民地となっていき、日本もその植民地として狙われていました。そしてアメリカにとって東アジアと清(中国)と貿易をしていて、中継地点として日本が位置的に利用しやすいということでペリーがアメリカから来日して脅しをかけるも、アメリカは自国で南北戦争を初め、外国に目を向ける余裕をなくしてしまいます。日本がロシアからの侵略を恐れ欧米とおなじく国の力を強くするために植民地を獲得して国の力を増やす帝国主義となり、日本はロシアの南下政策を朝鮮半島で食い止めたいということと、清(中国)はさらに朝鮮への影響力をつよめ植民地としたいということで日清戦争が発生し、日本は勝利しましたが、ロシアの南下政策的に清から渡された土地を支配していられては朝鮮半島進出に邪魔だということで、日本としてもロシアの朝鮮半島進出は今後の防衛上厳しいと考え日露戦争が発生しました。そして日英同盟によるイギリスと、日本を全面支持すると宣言していたアメリカの強力によってロシアに勝利しました。が、満州を巡ってアメリカと良くなくなってしまいます。そうして、第一次世界大戦が発生し欧州各国は戦争に集中していてアジアに構っていられなくなり、日本はこれを好機とし中国での権益を拡大しようとするも、この動きをイギリスはよく思わず、アメリカは日英同盟をなんとか破棄させたいと考えていました。イギリスに対してお金を貸していたアメリカはイギリスに敗北されると金を回収できなくなるということでイギリスを援護し、貸しを作り、アメリカと手を組むようにしかけました。その後第二次世界大戦が発生、そのさなか日本はフランス領土インドシナへ進駐していて、アメリカが植民地にしていたフィリピンとインドシナは近く、日本に自分の植民地が脅かされると考えたアメリカは日本への石油輸出を止め、アメリカにある日本の資産を凍結させます。そうして日本は自衛のために真珠湾を攻撃せざるをえず、英米の思惑通りに日本に先制攻撃をさせて日米開戦太平洋戦争が発生しました。この戦争の影響で、日本ではアメリカの文化を拒否し、アルファベットで書かれたものはスミで黒塗りにされたり、とにかく海外の文化は罰せられてしまいました。これで、哲学などの教育が日本には組み込まれずに来てしまったのです。哲学は今見ても人間として大切なものを考えるようなクリティカルシンキングで人間として知っておけば円滑に生きていけるような学問だと言うのにこのような深い歴史的背景、事情により取り入れられなかったのです。

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私は、欠落について、というか、そもそも教養科目について未だ何かわかっていません。そんな人、多いのではないでしょうか。教養科目とは何かきちんと教えられず、名目上の教養科目を教わり、これが教養科目ね、と理解したつもりになっている大学生が多いと考えます。これはもちろん学生側に熱心に取り組まないからだと定義するものではなく、大学側がきちんとその場を用意しないからだとか、教養科目として教えないからだと定義するものではなく、日本人の風潮に問題があると考えます。私たちが捨ててきた多様な科目は、もちろん今後社会の一員になる身からすると、とても重要な科目で、大学時代に身につけることができればそれに過ぎたことはありません。しかし、現代の風潮は、教養科目なんか自分で身につけろ、知ってて当たり前、そんな時代だと感じています。身につけた人が優勢で、身につけていない人が劣勢のような時代です。そこで、私は大学時代に教養科目を基盤として身につけさせ、優劣なく、足踏みをそろえる必要があると考えます。ただ、大学でどのように教養科目を設置するか、時間、場所、など様々な問題が浮上しますが、それほど価値のある学びだと考えます。教養が身につけば、教養の先に専門科目が学びやすくなり、日本人の学力の上昇も期待できるのではないでしょうか。なので私は、多様な科目を捨てない学びをしたいと考えます。

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日本の大学は、教養教育とかリベラルアーツとして多数の科目が存在しています。 国際バカロレアの「知の理論」と、その元になったバカロレアの哲学試験に至るフランスの哲学教育の科目は、日本の大学には存在しないと言われています。しかし、国際バカロレアは習得する意味が無いのではとも言われています。国際バカロレアは現状、教えている学校が少ないため、まだ認知度も高くないです。習得にもお金、時間がかかるため、他の似たような科目で補えるのではないかと思います。しかし、国際バカロレアのインターナショナルスクール生全員が文系と理系の両科目を選択する必要があります。日本の学校は基本的に、高校生から文系、理系に分かれて、受けなくなる科目もあります。言い方を変えれば多様な科目を捨てています。多様な科目を捨ててきて、やはりどこかで習っていないから分からないという事態に陥ったこともあります。でも、文系なら国語や社会、理系なら理科や数学など、徹底しているので、得意になればそれを伸ばせるし生かせる場面が多いので、文系、理系に分けることは悪くないし、それぞれにメリット、デメリットもあると思うので、お互い学ぶべきことを学んでいけばいいと考えています。

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私が科目を捨ててきた場面として、それは、生まれてからの様々な行動一つ一つが科目の選択や欠落を生じさせてきた場面と言えると思います。もちろん、私は、人との様々な交流をしてきて、これらの欠落した科目を学んでいたらと後悔したこともあります。ですが、今までの私は、逆に私にとって欠落した科目を学んでいた人も私の科目を使う機会があった時にそう思うときがあると思っていました。そして、私は、そのためにそのような欠落したもので後悔をするのなら、得意なこと、既知のものを伸ばすほうが有意義ではないかと考えていました。ですが、これからのグローバルな時代では、その得意なことや既知のものを伸ばしつつ、世界を意識した教育というものも必要となってくると私は、考え始めました。それにより、今まで学んだことが新たに活かせる場面を発見することが増えたり、できたりしますし、自らの範囲外で得意なことや既知のことを補完する知識や経験をできる可能性も増えます。だからこそ、日本の大学には、ばらばらに教育を並べるのではなく、一つのモノとして、形成させた教育というものが、今後の世界全体を意識した社会では、役に立つのではないかと私は考えています。

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私は高校時代に文系を選択したため、ここまで理系の科目については“捨てて”きました。その影響が現在にどうなっているかと考えた時に、そこまで影響はないのではというのが正直なところです。理系科目を必要とするような出来事はここまで起こっていないですし、おそらくこの先もそう多くはないと思います。また自分の将来設計をした時に、理系か文系かを考えた結果、理系科目は不必要であると判断したと思います。あるいは、文系科目の方が重要である、将来必要になってくると判断したのです。そういった意味で文理選択において捨てた科目については、欠落していることが問題であるとは思ってはいません。今日の授業では、IBの学習者像についての話がありました。前回のFormsで資料を読んだときに、大学入学前の教育プログラムだと分かりましたが、日本で現在はあまり浸透していないことについて改めて考えてみました。それは、大学入学を前提とするプログラムである点が普及を阻んでいると思います。先述したように高校で文理選択をして、進路に備えるということが一般的な中で、TOKを含むDPを導入するには実態にそぐわないということが考えられます。しかし、本来の学ぶ者として、「知の理論」などの学習は必要であるということもまた事実です。今回の授業を通して、「捨てて」きた教育が一般的になりすぎて感覚がマヒしていますが、本来の教育、あるいは学習はどのようなものなのかについて考えるいい機会になりました。

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私が通っていた高校はクリスチャン系だったため、礼拝の時間があり様々な講師の方は学生の代表が説教をする時間がありました。そこでは基本的に聖書を読み、その章に合った話だったり、時事ネタだったり様々な話題がありましたが、基本的には小学校で受けた道徳の時間に近かったと思います。私は今大学生ですが、道徳心にかけている学生がたくさんいるように感じます。大学生だけではなく社会に出ても、人を捨て駒のように扱うブラック企業が多数存在しており、道徳心に欠けている大人も多くいると思います。私はここで道徳がなぜ大学で必修科目ではないのか、疑問に思います。倫理や道徳は社会に出ても考え続けるべき科目だと思います。今勉強している科目を選択した時に、別の科目の勉強を諦めてきました。私はどんな授業よりも、欠けていけない科目が倫理や道徳だと思いました。なぜなら、人と人は思いやりの心を忘れてはいけないと思っているからです。また倫理は正解の選択肢というものが必ずしも存在しない、難しい内容であるからこそ、フランスのように小論文を書く練習、そして道徳心とは何か、考える時間が必要だと思いました。だから私は大学受験の必修科目になってもおかしくない、もはやなるべきだと考えています。

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日本の科目の欠落について、私は日本の教育の遅れに問題があるのではないかと考えています。 現在、日本の教育現場においては、生徒一人一人は科目を自由に選択することができずに、学校側から事前に決められている科目のみで学習を行っています。 これによって、多くの生徒は授業を受動的に受けるようになってきており、生徒が主導となって学習することができていません。 さらに、グローバルな世界となっている現代では、多種多様な情報が飛び交うようになったことで、正確な情報を受け取ることが難しくなってきています。そのため、今後は生徒のうちからさまざまな認識や国際的な視野を養っておく必要があると私は思います。 しかし、現在の日本の教育上、科目は欠落されており、多様性が無くなってきています。これによって、多くの生徒は、やりたいことが見つからないまま、卒業をしてしまい、能力や才能を伸ばすことができないまま、大人になってしまっています。 以上のことから、今後の日本の教育は、生徒の探究心を引き出し、知識の領域を幅広く探究させるためにも、科目の欠落をなるべく抑えることが重要であり、生徒のうちから国際的な視野やアイデンティティを形成させ、能力の開拓を行わせる必要があると私は考えています。

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私のコードブレイクです。私の名前はハディです。facebookとzoomで、全体で1000名の生徒を参加させてYouTubeライブで授業を行います。幼稚園や高校、どこでも見ることができます。このコードブレイクは、家でたくさんの生徒と一緒にインタラクティブ教室を毎週行い、インスピレーションコミュニティとコンピュータサイエンスを教えます。 相棒は私の娘のソフィアです。娘は新進のコンピュータ科学者です。生徒の家族はコードブレイクに毎週参加してくれるのはありがたいですがちょっと待ってほしいです。サポートを検討させていただきます。1人の生徒が私たちのチームを作成し、私たちのコードを従事します。何人かの生徒は数日、10億時間祝います。生徒に無料で、私たちの教育を維持するのに役立ちます。アメリカやカナダからコードブレイクを見ることができます。しかし、カナダの向こうのハワイやアフリカの人々は見ることは不可能です。 日本や中国の人々は、彼らの家族のライブをYouTubeで見ることができます。初心者でも早く、学び、話すことができます。 このコードブレイクは、シミュレーションをして、視覚化をします。 コロナウイルスのパンデミックが世界に拡大しています。それについて考えていきます。 生徒が一人一人自分の意見を発表し、生徒さんが見せてくれたeメールをシェアします。複数のアプリとスプレッドシートを見せてくれたりして、非常にわかりやすいです。最後に、来週の授業のお話をします。挨拶をして授業を終わります。

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私も今まで欠落した科目は多くあります。それは、英語だったり、美術などです。今思うと欠落しないで諦めずにやり続けておけば良かったと後悔があります。なぜなら、英語は将来大人になったとしても関わることが少なからずあるのでそこで必ず苦労してしまうからです。だから、苦手な科目でも少しでもいいから勉強しておけば役に立つことがあるからです。一方あまり影響がなかった科目もあります。それは、家庭科や美術といった科目です。なぜそう思うかというと、大学3年になっても美術や家庭科などといった知識は全く必要がなく今まで生きていてそこまでやらなかったらきついって思ったことはないからです。もし、昔の自分に戻って伝えることが出来るなら、数学や英語などといった日常で使うことがある科目は勉強して、日常で使うことが滅多にない科目に関してはある程度知識を持っているくらいで良いということを伝えたいです。そうすれば今になって大変に思うことは少なくなると思うし、もっと色んな事に挑戦することが出来ていたんだろうと自分の中で思います。やっぱり今思うことは必要な知識と必要ではない知識とでしっかり分別して勉強しておけば良かったなと感じます。今になって大変に思うこともあるし、こうしておけばよかったと思うことも少なからずあります。だからこそ、苦手なものに関してもすぐに諦めるのではなく、我慢して少しずつ努力していくことが後々自分のことを助けてくれるのだと思います。

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私は多様な科目の欠落は自分の人生の選択肢を狭めることになると思います。しかしこの欠落を拾えてる人は人生の選択肢を広げることができると思います。大学や高校にある科目は人生において必要な知識をわかりやすくジャンル別に細分化したものであり、カリキュラムにのっとり自分に身につくようになっています。科目にないということは学校の授業以外で自主的に補わなければいけなく、本やインターネットで学習しなければならなく、少し手間になることが多いいと思います。欠落を補うためには自分から勉強になければならないと思います。学校の科目だけこなしている人はおもしろくない人がおおいいと思う。人間としても面白みがなく、主体的に行動ができない印象があと思います。逆に学校に科目以外も自主的に勉強している人は考え方が縛られていなく、人間的に面白いと思います。この差を生み出している原因は科目の欠落を拾えているかどうかだと思います。日本には海外に比べて哲学において理解がないと思います。どちらかというと、哲学よりも道徳を重んじる風潮があると感じました。知識は人生の選択肢を広げるためにあると思います。

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「多様な知識を捨てる、そうして多様な知識が自分の中から欠落する」ということは、良い側面も悪い側面も持つと考えます。まずは良い側面についてです。例えば、スポーツが嫌いな人は、スポーツを好きな人も多くいるという点から、スポーツの本来の楽しさに気づけていないだけで、スポーツを楽しむ機会を逃していると捉えることもできます。多様な知識を得るということは、多様な考え方を身につけることでもあります。多様な見方ができるということは、物事を深く知ることにつながり、あらゆる事柄の面白い側面を発見することができます。つまり、多様な知識を得るということは、多くの楽しみを見出すことができるようになるということです。私たちが生活する中で、あらゆる楽しみを持つことは人生を豊かにしてくれるはず、という点において多様な知識を得ることはメリットが大きいのではないでしょうか。次に悪い側面についてです。もし、人類皆が多様な知識を捨てていないとしたら、どのような人たちで世界は溢れるでしょう。私はSF小説に出てくるような高度な文明を持った世界が浮かびました。知識人がたくさんいるということはいいことかもしれませんが、そうすることで失う文化、見方というのもあるのではないでしょうか。例えばヤンキーカルチャーやハードボイルドなカルチャー、渋谷のギャル・チャラ男。知識を多種多様に持たず、一つに絞るからこそでるオーラ、人間味みたいのがあるような気がします。以上、良い側面と悪い側面を考えてきましたが、私は良い側面の方がやはり強いのではないかと思います。グローバリズムの中、人間の多様性が認められてきている中で、色々な考え方を知らない、理解できない、考えられないというのは時代遅れとも言えるのではないでしょうか。そういう点においても、多様な知識をしっかりと持ち、多様な考え方を身につけていたほうがいいと思います。

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私は、今まで捨ててきた多様な科目について、後悔する科目もあれば、捨ててよかったと感じる科目があります。捨てたり、諦めたりしてもっと勉強すればよかったと後悔した科目は、言語です。特に英語は、今後必要となってくる科目だと強く思います。英語ができると、色んな視点から見ることもできるため、今最も後悔している科目です。逆に、捨ててよかった科目は、信仰の科目です。宗教に関しては自分自身あまり関心がなく、勉強したいという意欲が湧かなかったので、捨てて正解だなと感じます。以上の事から、私が捨ててきた科目について、自分自身が必要ないと思った科目は容赦なく捨てて良いと思います。ですが、色んな知識を得ること、知ることも非常に重要なことだと感じます。専門的に偏るのもよくないですが、基本的には自分の興味あるもの、知識の幅を広げたいものを中心にとるべきだと考えました。また、今回の授業を踏まえて、想像や直感を鍛えられる科目は、絶対捨ててはいけない科目だとと感じました。直感は、一瞬で判断するので、間違えることも多くありますが、理性は物事を熟考するため時間を必要とするというデメリットがあります。急な判断をしなければならない状況において、直感はとても重要だと思います。想像では、想像することで、新たな知識を得ることはよくあります。想像力をもっと働かせていけるようになれば、色んな行動ができると感じたので、この二つの科目はとても重要だと感じました。

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私は、教養教育こそ、いま社会でもっとも必要とされる能力を養う教育だと思います。テクノロジーの発展やグローバル化によって複雑化する社会における「答えのない難問」を解決するには、単一の専門領域に関する知見だけでは足りません。幅広い知識を持ち、さまざまな角度から物事を考えられる柔軟な思考が必要だと思います。以前、経済産業省の提唱する「社会人基礎力」という記事を読みました。そこに並んでいる言葉は、主体性、実行力、考え抜く力、課題発見力、計画力、創造力、発信力、柔軟性、などでした。ここに並んでいる課題発見力、考える力、創造力、云々は、これから社会に出る大学生にだけ求められることではないと思います。仕事歴数年かの社会人のなかにも、こういうスキルがまったく欠落している人はたくさんいます。グローバル人材やリーダーを育成する上で、リベラルアーツを学ぶことが重要であるという認識の高まりから、人材教育に取り入れる企業が増えています。幅広く深い知識を身につけることで人生を豊かにし、また、それらに裏打ちされた奥行きのある人間になるための学問だと思います。幅広く深い知見を持ち、大局的に物事を捉られるような論理的思考力や発想力を備えた人材を育成していくことが、企業が厳しいビジネス環境の中で生き残っていくために必要だと考えます。

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誰しもが得意不得意の教科があるわけですし、誰しもが全く同じ性格を持っているという事もありません。つまり私がここで言いたいのは、自分が得意だと思っている科目を強みにして他の科目が駄目であったとしてもそれで補えれば良いという事を言いたいのです。中にはどの科目も平均的にしか出来ない、どの科目も苦手という人がいるかもしれません。しかしその出来ない科目の中でもこの勉強は苦手だけど好きといったように好奇心を持って取り組むという事が大切であると思うのです。つまり欠落している部分があったとしても取り組み方次第で可能性はシフトしていくわけで、逃げ出さないという事が大事だと私は思いました。今回授業内で紹介されたバカロレアの哲学教育ですが日本にもこういった哲学試験を取り入れてみても良いのではないかと感じました。縛られた教育環境から逸脱して新たな可能性を広めるといった意味でもこのプランは良いと思いました。固定概念から意識を逸らしてみて別のものを発見してみる、そういった広い考え方を持つ事が今の日本人には出来てる人が少ないのでちょっとずつ変わっていったら良いなと思います。話が脱線しましたが欠落を補える何かを見つける、そういった方法を私たちは発見していくべきなのです。

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日本では職業など将来的に直接関わっているものでないものを授業などに取り入れることはとても多いと私は感じました。そのため将来社会に出たときにここまで学んできたことを応用して使えるという人が少ないのではないかと考えました。私は高校時代、商業高校に通っていました。簿記、情報処理、電卓など職に就いたときに使用することが多いものを学び、検定等を受け社会に出る準備が少しできた気がしました。その中でもパソコンのタイピング、ワード、パワーポイントなど使用頻度が高いものについても多く学べたことは私の中でも自信に繋がっています。実際に社会に出たときにパソコンを使うことが多いと聞きます。そのためさらにその能力に磨きをかけたいと考えています。しかし、これら以外に私がもうダメだと考え諦めてしまった科目も少なくはありません。私以外にもそういった人は多いと思います。私がもっと学びを深めた方が良かったと考えるものは英語です。小学生の頃から塾や学校で勉強してきましたが、正直とても難しかったです。国際的な交流も増えてるこの現代で英語を使えると、とても武器になると感じました。やはりそういった重要な科目を小さい頃はわからずに勉強していたため、将来を見据え、そこにもっと力を注いで良かったのではないかと感じました。日本では重要と考えられる科目にもっと力を注いでも良いのではないかと感じました。

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私は、日本にも哲学教育は必要だと思います。それを学ぶことにより、より平和な世界を築くことに貢献する人間を育てることができるからです。学ぶことによりどんな人間が育てられるかというと、研究する人、知識のある人、考える人、コミュニケーションができる人、信念を持つ人、心を開く人、思いやりのある人、挑戦する人、バランスのとれた人、振り返りができる人です。私はこのすべてを得られていたら非常にこれからの人生を生きやすくしてくれる財産だと思います。これは一度手に入れたら、一生自分のものなので、教育としてそれが学べるということはかなりいいことだと思います。そのまま生きていて得られるものがほとんどですが、それを教育で学べるとなると、誰もが均等にそれを取得できる機会が与えられることになります。私もこの中でほしかったものは、挑戦する人、信念を持つ人である。今回の講義でこれをやらなかったら、私は自分のやる気が足りなかったとだけで済ませていました。ですが、今回の講義によって、こんな環境があれば私もなにか違ったかもしれません。これを日本でもやるべきことだと思いました。日本人は、控えめと言われるのもこれをやればなにか変わるかもしれません。こんなたくさんの重要な科目を捨てているので、これから学べる環境になってほしいと思いました。私も学べるなら実際学んでみたいと思いました。

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個人的に考えていることは、バカロレアの知の理論にしろ哲学教育にしろ日本のリベラルアーツ的な大学での教養にしろ、人が人生をかけてすべての知識を学ぶにはあまりにもそれは短すぎるのです。多様な科目を取捨選択した結果、欠落してしまうものも多いことは仕方のないこととも言えます。しかしだからこそ、生きていくために何を学ぶべきか、自分は何を学びたいのか、をより深く認識する必要があるべきなのです。また真理を追求していくためにもフェイクニュースなどはもってのほかです。 その点において日本の風習において個人的に悪だと感じているものは大学受験です。日本の大学受験はざっくりと言うと文系なら英語・国語・社会、理系なら英語・数学・理科、というようにある程度の総合的な知識について問われ、優秀な人は合格、不出来な者は不合格となります。 総合的に知識を獲得することはとても大切なことではありますが、それ自体を大学受験の合否の全てにしてしまうのは理解出来ないのです。簡単に言うと、大学に受かるために必死に学んだ知識を大学に入ってから一体どの程度活用しているのでしょうか。大学受験ももっと実用的な試験にするべきだと考えています。 またこれは日本人や世界中の人々がどのような気質なのかは分かりませんが、それぞれ興味のある科目やそうでない科目があるので、様々な知識を学ぼうとする事自体をあまり考えないと思っています。少なくとも私は自分が成長する上で大事だと、必要だと思った知識は学ぼうという風に考えています。なのでもちろん欠落の方が多いと思いますが、私は知識の蓄積と同じくらい、その知識のより良い活用方法も大事だと思うので、欠落は仕方ないと考えています。

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私は今回のバカロレア試験の哲学試験に至るフランスの哲学教育について日本とは大きく違うなと思います。フランスの教育では人文系、経済社会系、理系の3つの分野に別れており、すべてが論文形式の問題であり日本人が苦手だと言われている問題であり、私も問題形式で一番苦手な問題形式です。日本人は自ら考えて答えのないものに対して答えることが苦手と言われており、その背景には小中学校での教育に問題があり、高校や大学受験の形式にも問題があるのではないかと思います。高校や大学受験の形式で多くは選択形式であってマークシートで勘でも正解になることがあります。そのため一問一答で勉強することが多いと思います。そのため、小中学校でもそのために勉強が行われどんどんとフランスのような哲学的な考えがなくなるではないかと思います。センター試験もマーク形式を撤廃して論述問題も出すようになり日本の教育に変化が出てきているが、それでもバカロレアの哲学試験と比べると比にならないと思います。このような日本教育制度の欠落は大人になった時に感じ、将来もっとグローバル化した時に世界との教育格差にも生じるのではないかと思い、小さい頃から哲学的な教育を取り入れることで苦手意識もなくなって哲学的思考を持つ人たちが増えるのではないかと思います。

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私が今回の講義を受けて感じたことは、もっと大きな視野で物事を見て、学ぶべきであると感じました。知の理論の話を聞いて、学ぶこと、学ぶ方法を学ぶことの重要性を理解することができ、知の理論的な観点で学ぶ人はこうであるべきというのも学ぶことが出来ました。私の高校は文理選択で文系を選択した場合、理系の教科の授業は一切受けなくていいというシステムでした。狙いは、文系選択者は私立大学受験1本に絞り、集中して文系科目を勉強することで合格率を上げるためと先生に聞きました。確かに大学受験においてはその方法が効率的ではあると思いましたが、広い視野で見たときに、他の高校の生徒が学ぶものを自分は学ぶことが出来なかったのではないかと思います。実際に大学に入ってから数学を学んでいなくて苦労した経験がありました。同じ文系の学生でも分かるような数学の問題を1から勉強しなければならないという経験をしました。大学に合格するという短期的目標においては私の高校のやり方は利点があると思いますが、長期的に考えたとき、大学に合格したあと、就職活動、社会人になったあとのことを考えたら学んでおくべきことであると今回の授業で改めて感じました。これは学校の学びだけでなく、社会的な情報などでも同じことが言えると思います。より広くアンテナを張ることが重要であると感じました。

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 私の多様な科目の欠落に関する考え方としては日本の大学日本の社会制度から出ないのであれば別に困らないとは思うというのが正直です。日本の就職などは今でも学歴で見られたり、大学で何を学び個人がどんな人材化を評価することが多いと思います。そうなれば、日本の大学の入学制度での科目選択などの方法は就活では評価されないと考えます。実際に自分も大学入学を私立に切り替えたときに数学を捨て社会の受ける科目は一つに絞りました。しかし、欠落した科目を知識とした場合、話は別です。自分が選択科目に絞って受験したことを私は後悔しています。知識とは個人差があるものです。その個人差はその人が何か新しいことに触れたことに興味として認識したときにそれを得ようとするものだと感じます。例えば、社会の選択科目を世界史と日本史に分かれたときに日本史選択をした人は高校の教科書の範囲内ですが、一般の日本史と触れていない人との知識差は大きく開きます。また、私が体験したことなのですがSPIの問題を解くときに5年以上数学に触れてない私は数学選択で入学した友達に解き方を教えてもらいます。そんな時毎回知識があるのって羨ましいと感じてしまいます。人それぞれに得意分野があるという言葉でかたずけてしまえばそれまでですが、誰もが知識を得ることをは平等にあるので同じように知識を得ればみな同等の知識を得られると考えます。  長々となりましたが私は生活の上で困らない程度の知識を持っていればいいと考えますが、実際には知識というものは武器にもなるので増やすべきだと考えます。また、中途半端な知識よりもやはりより深い知識が必要だと思います。

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私は、科目を選び捨ててきた科目については特に後悔もしていないです。なぜなら、私はコース選択の時点でコースの選択必修科目をすべて取らないといけないのでコースを決めてからは自分の興味あるものの講義をとれているので問題はないです。ただ今年度に関しては、コロナの影響もあり実技を通した講義に関しては軒並み履修が困難な状況になっているのでその影響で履修することができていないものについては学びたかったという思いはあります。コースの選択必修以外の科目については、かなり悩んだうえで科目を選択指定しました。学校の制度上、自分が所属している経済学部の履修科目だけではなく他学部の科目も履修できるため選択できる範囲が広かったため悩みました。ただ、今となっては、その当時悩んだ末に科目を選び、捨てた科目も存在します。しかし、今となってはそこまで印象に残っているわけではなく後悔もしていないのでそこまで自分の中では問題視しなくてもいいと感じます。加えて、その捨ててきた科目、欠落させたものに対して自分が学んでおけばよかった、学びたいと感じる人は後々独学なりもう一度自分で学ぶ機会を作り勉強に取り組めばよいと思います。また、そういう行動を取る人も少なくないと考えます。

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私の考えでは、リベラルアーツの欠落はクリエイティブな思考の欠落に繋がると思います。よく成功している人物の読書のテーマでリベラルアーツを読み漁って応用すると目にしたことがありますが、リベラルアーツは創造的な思考を育むのに最適だと思います。現にスティーブジョブズは大学の講義で習ったカリグラフィーをMacの書式に活用しました。私自身としてはリベラルアーツはとても好きです。そこで学んだ内容を抽象化すると、他分野で活かせるようなものがちらほらでてくるからです。小さい頃は算数や数学が嫌いで、よく「これが将来なんの役に立つんですか?」と嫌いな科目で言う鉄板の文言でしたが、いま考えてみると、数学を数学として捉えずに、数学の問題を解くプロセスや思考法を模索していくことに意味があったのかもしれません。もう後の祭りですが。そのことから好きな科目だけ能動的に学ぶのではなく、嫌いな科目や苦手な科目も捨てずに学ばなければいけないのかもしれません。まとめると、日本の教育制度は言われたことを忠実にこなすような機械的な思考を身につけることしかできない環境で、知の理論を取り入れる海外の教育は創造的で能動的な思考を生み出す環境が整っていることから、日本はこのままではいけないという危機感を覚えるべきです。

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TOKは学際的な観点から個々の学問分野の知識体系を吟味して、理性的な考え方と客観的精神を養うものです。 さらに、言語・文化・伝統の多様性を認識し国際理解を深めて、偏見や偏狭な考え方を正し、論理的思考力を育成します。 私たちを取り巻く世界は、近年、情報化やグローバル化の進展など、変化の激しい世界となっており、このような変化が周囲へ与えるインパクトやその範囲は、地域によって様々な違いはあるものの、知識の形成に深い影響を与えるものであると言えるでしょう。 近年、知識の急激な増大が起こっていますが、それは単なる知識量の増大ではなく、知識の専門化・細分化が進んでいます。 同時に、量子力学やカオス理論といった20世紀の発見によって、認知や予測が不可能な物事が存在するという事実も明らかになってきました。

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国際バカロレアの教育には現在の日本の教育と異なる点が多々あります。大きな違いは、日本の教育は理論や知識をそのまま教えるもので、バラバラの知識になるのに対し、国際バカロレアの教育は探求することを目的とし、自ら問題提起をするため繋がった知識になりやすいと考えます。日本にはこのような教育をしている大学は存在しません。私はこのような教育をしていないことは将来の日本にとって良くないことだと考えます。日本の大学の教育では知識は増えるかもしれませんが、問題を与えられているので現状の問題が何であるかを考えることができないと考えます。逆に国際バカロレアの教育では自ら問題提起をするため、問題提起から問題解決まで行うことができます。また、問題解決の手段を問わないことから今までの知識の何を使うか取捨選択して問題解決に努めることができる。このような問題形式であれば社会に出た時に様々なことに活かすことができると考えます。例えば自分が勤める企業が成長するにはという課題では漠然としすぎていて日本の教育では難しいとと思いますが、国際バカロレアの教育では課題が何かを考えることが出来るため、企業が成長するのにきっかけを与える人材を育てることができると考えます。

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近年、大学の講義は、授業のなかでプレゼンテーションを行ったり、企業と共同研究を行ったりするなど、社会で役立つスキルを身につけられるよう工夫されたものも多いです。教養科目は、大学での専門分野の基礎となる知識や、社会人として必要な幅だと思います。大学の学びで役立つものとして、わたしは「ゼミ」だと思います。研究を通して専門的な知識を身につけられたという点よりも、ゼミでの学び方が仕事に生かせていると感じます。特に研究の手法やプレゼンテーションがあるといいと思います。また、仲間と力を合わせて研究を進めることが多いため、コミュニケーション力も磨かれます。日本の大学には、他の国に比べて多様な科目はないですが、日本には日本なりのやり方の科目がたくさんあります。結論から言えば、将来、自分の夢を実現するための力を養うことだと言えます。大学での4年間の学びを通して、学生は専門知識や技術を身につけ、自分の夢を実現するために就職という形で社会へと巣立っていきます。ただ、夢を実現するには、単に学問を修めて知識や技術を身につけただけでは、十分ではありません。では他に何が必要かというと、人間的な成長です。もっと具体的に言えば、社会で生きていくための社会人としての基礎力を養うことが欠かせないのです。大学で学問やさまざまな経験を通して、科目にとらわれず、柔軟な発想をする習慣を身につけるべきだと思います。

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これまで欠落させてきた多様な科目について私は後悔をしないような選択をしてきたため、ほとんど気にしていません。高校時代から文系、理系の取捨選択があり大学入学時には授業の選択を迫られました。この時私は今学びたいと思っているもの、得意だと思うものを選択してきました。もしあまり好きではない科目を取ってしまうとモチベーション管理が難しくなると考えていたからです。大学だと特に勉学のモチベーションが難しいと感じました。周りの友達で授業をサボり出す人も出てきて、且つオンラインの為何をしていても見られているということはありません。だからこそ自分の学びたくない科目は欠落してもいいと思いました。しかしながら最近就職活動やグローバル化が叫ばれて来るとそうもいかないと考え始めました。例えば以前嫌いだと切り捨てた数AはSPIの数的理論で再開し、英語などの外国語は現代において学んで損がない科目となりました。この考え方を通して私は先を見越した履修をしなければならなかったと反省をしなければなりません。もちろん好きな科目、得意な科目は伸ばしていかなければなりませんが、社会人になって学んだことが何も活きないと意味がありません。 だからこそ日本の大学は特化したものを学ぶだけでなく、社会人になって活用できる科目を一括して提供することで日本全体よ のグローバル意識や考え方そのものが変わってくるのではないでしょうか。

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現代の学生人生の時間は約大学4年までとして16年間しかありません。その中で全ての項目の授業を学ぶというのは無理難題な話だと思います。現代ではその少ない16年間の間に必要最低限の項目を選び授業を学んでいます。しかし、その取捨選択された項目以外にも今回のような「地の理論」などの重要な授業も捨てられています。このような現象が起きている中、私は致し方ないと思います。その理由は、国が定めた必要最低限の授業は必ず学ばなければならないですし、またそれを行うことである程度の必要な授業が捨てられてしまうのも致し方ありません。仮に「知の理論」のような授業をとった場合、国が定めた必要最低限の授業が行えなくなってしまうかもしれません。私も大学生になり、授業を取捨選択してきましたが、自分が取りたいと思っていても、他の必修科目があるからあきらめる、という経験をなんどかしたことがあります。自分が興味のある授業だからといって必修科目を捨てるわけにはいきません。これは国が定めたものと一緒で、大学が決めた必修科目なので従うしかありません。なので、現状行われている取捨選択は致し方ないと納得するしか解決案はないと私は考えました。

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日本の大学には哲学教育はされていないため、私たちは多様な科目を捨ててきました。興味があるにしてもないにしても、その勉強はしなければならないという環境があれば、嫌でも学びますし、それをきっかけに興味がわきより学ぶ姿勢が出てくることもあります。日本人は自分を表にだすことが苦手な人が多いイメージがありますし、現代ではSNS上で多様な考え方ができずに批判、誹謗中傷が多くなっています。哲学を私も学んだことはありませんが、考え方が広がると思いますし、全員がそれを学ぶとなったら考え方の違いが生まれても受け入れられるのではないかと思います。コミュニケーションは人の心が大事になってきます。心と頭が広くないと勝手に自分の視野もコミュニケーションの場も狭められてしまいます。「知の理論」のような学問は必要だと思いました。前回のフォームズでも書いたように、このような指導があれば、このような知識を得ることができると考え方も広がると思います。日本も大学入試の際にこのような小論文等の哲学的な分野を入れた方がいいと考えます。日本が海外からいろんな分野で遅れを取っています。これを変えるためにも教育から力を入れていき、日本の将来につながってほしいです。私は哲学的な分野が好きなので、本を読むことや、自分ができることから実践していきたいと思います。

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様々なことを知る機会が大学には合って、今回のような話を詳しく話すこともなく、論文を書いたときに、様々な指摘があったということがなかなかいまではないことだし、今までもそういったことをやったことがなかったので、実際に見てみると、すごいなという印象を受けました。今までは、様々な科目を捨ててきたいというより、やらされていたということのほうが大きかったので、意識したことはありませんでしたが、今考えてみると、いろいろなものがなくなっていたのだと感じました。知の理論を知っていたら変わっていたのかもしれないし、そういうものがあること自体よくわかっていなかったので、知らず知らずのうちに欠落していたのだと思いました。世界を広く知るという意味ではそういう、知らなければ何も始まらないですし、今からでもまだ遅くないのだと思いました。欠落について、悔しいとかそういう感情ではなく、むしろ欠落していたことに今気づけたのだから、これから補っていければよいと感じました。自己形成がある程度終わっている中でも、知識を得る人や考える人にはなりうることができるし、今までそうした機会を逃していた分、これからのやることが増えますが、まず走ることが第一ということを意識として持ちたいと思いました。

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国際バカロレアの知の理論と、その元になったバカロレアの哲学試験に至るフランスの哲学教育について今回の講義を聞いて、私がこれまで多様な科目を捨てきて、その中での欠落について感じることは、将来世界に出て活躍したい場合には、これまでのように多様な科目を捨てるのは勿体無いことだと感じます。ある程度の専門性は必要ですが、それと同時に幅広い知識を学ぶことや、バランスも重要であると思いました。一方で、将来日本国内だけで活躍することを考えている場合にはあまり大きな問題ではないと感じました。なぜなら日本の社会は日本の教育と同じように全ての職種が専門性が高いためです。むしろ日本国内だけで活躍するためなら、いらない科目や知識は捨て、専門性を高めた方が良いとも感じました。しかし、世界に出て活躍したい場合も日本国内だけで活躍したい場合でもTOKの「知るための方法」として言語、知覚、感情、理性、想像、信仰、直観、記憶の数多くの方法があることを理解することが大切だと思います。なぜならこの8つの方法はそれぞれの人が世界や社会全体をどのように捉え、把握しているかに大きく関わってくると思うからです。 世界に出て活躍したい場合も日本国内だけで活躍したい場合でもTOKの「知るための方法」を理解し数学、自然科学、人間科学、歴史、芸術、倫理、宗教的知識の体系、土着の知識の体系の8つの「知識の領域」を探求することはとても重要なことだと思いました。

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中学までは平等に習ってきた科目が、高校生の時に文理で分けられ、それからだんだん数字に触れなくなってしまいました。大学に入った時には簿記で少し計算しましたが、自然と文系は習わなくなったことで数学に対して、苦手意識を持っている人が多いいと思います。基礎中の基礎が高校2年(分離で分けられる前まで)に学べていれば、今現在困ることはほとんどなく、簿記に必要な計算だけ学んでおけばいいと思っています。基本的には、高校生の時点で自分の将来が二分していて、大学からはそれが専攻科目になり、いままで平等に約11教科学んできても半数ほどになってしまいます。それは、もったいない気持ちと少しでも学んどいてよかった、と思うときもあります。それはこれから社会人になってからも親になってからも思うことかもしれません。たとえ、欠落した教科があったとしても、それまで学んできた知識で十分だと思います。中・高校生の教科書は年々分厚くなっていて、ゆとり教育の時代とは比べ物にならないくらい勉強しています。私自身高校の勉強は人生の中で一番情報過多になりながら頭に詰め込み日々勉強していて、十分やり切ったと思っています。それくらいの情報と知識があれば、大学以上は、興味ある事に集中していけばいいと思います。その分、小中高の時は無我夢中でに勉強という名の仕事をこなす必要があり、一生使える教養を身に付ける必要があるなと思いました。

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今回も正直難しくてわからないところが多かったです。ですが知識に関する問いなどはなるほどな、と理解できるところが多かったです。例えばどうやって知っていることを伝えるかなどは感慨深いと感じました。本題の欠落したことについてどう思うか。に関しては私はこれまで膨大な時間を無駄にしていたんだなということを理解しました。 知識というものはそこら中に溢れているにもかかわらず自分らがそれを意識しない、しようとしないという事態が情けないと感じました。 本などを読んでいても知識に関する飢えというものを感じていながらも何もしないという状況が毎日ありこれが自分なのだということを再認識させられました。年々日本の学生の学力が下がっていること、海外と比べてかなり劣っていることなどを比べてみるとこれからの私達の欠落した、させてしまった科目や時間をもう一度見直していかないといけないと感じました。総じてこれからは捨てるという選択肢は無くして必死に食らいついてみる。知識として蓄えられるのであれば単位などを考慮しなくても授業などを受けることが大切だということを感じました。やはり先生や教授という知識のプロフェッサーがいるのにも関わらず活用しきれていないというのは非常にもったいないことだなと感じました。

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国際バカロレアのようなものが学べる試験は日本にはありませんが、私はそれでもいいのではないだろうかと考えています。何故なら日本人の思考、考え、性質上そのようなものが存在してしまうと悩んでしまったり鬱病などの予兆になってしまうように感じる人も出てきてしまうのではないかと私は感じたからです。たしかにこのプログラムには様々な要点が存在し自分で思考を考え言うなれば大きくいってしまえば人間性を見られているという捉え方もできると私は思います。この様に試験に自分の思考が入ってしまうと自分の生き様や人間性を見られている、落ちてしまった時自分の人格を否定されたと感じてしまう場合もあります。日本の試験というものは勉強して叩き込んだ、覚えた知識を披露するだけです。たしかにそんな単純なことはどうかという意見もあるのかもしれませんがこれは努力するかしないか、落ちても努力が足りなかったなどと自分の解決できる問題となります。自分の頑張りによって未来が変えられるたのです。日本は感受性が高かったり気を使うことがデフォルトである人が多い国です。それにより精神的に病んでしまう方も多くあります。この様な試験は学びが増えいいものであるとは思うが国の人間性にその試験がに合うか合わないかをしっかりと見る必要があると思います。なので私は日本がこの様な試験がなく知識が欠落しているからだめで遅れているなどは思いません。

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前回の「知の理論」についての資料を読んで、私自身興味を惹かれる様な内容であり知識をつける上で身になる理論であることは感じました。現在、日本の学習の環境では課題の説明に書いてあるように、このような分野を深く勉強できる事は少ないと感じます。早いうちから「知識の付け方」、「知識とは何か」を勉強できる事は学生達にとって勉学から趣味の領域まで幅広くプラスに働くと感じました。知識の価値や重要性について考えたのは今回取り扱っている「知の理論」を触れて初めてでした。この理論について義務教育のうちからしっかりと学んでいく事は、社会に出るまでの学生達の勉強期間に対するモチベーションや、知識の領域の拡大に大きく貢献すると思えます。資料を読み、今まで培ってきた知識が土台となり新たな知識と結びついていく知識の輪についても考えました。私も勉強をする上で自分には必要ないと手を抜いて勉強をする場面が幾度もありました。ですが色々な知識を学んでいくうちに、「あれをしっかり学んでおけば」「この分野が必要なのか」と後悔する場面がたくさんでてきました。今思い返せばそれらは自分が 2次元的に知識を判断して、必要不必要を決めていたからだと感じます。「知の理論」は知識の捉え方を3次元へと引き上げてくれると私は思います。3次元へと引き上げらた知識への意識は判断を多角的にし、自分にとっての知識の重要性を高めるものへと繋がります。これにより学生の学ぶ事への意欲向上も期待できます。このことから私はこのような科目を学ぶことのできる環境が必須であると考えました。

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私は欠落した科目に対して気にする必要のないことなのではないかと考えております。 まず私が捨てた科目はどこかのだれかが精通しているでしょうし、私がその人に成り代わる必要性を感じず、またどれだけの人が全般的に科目を学ぶだけの素養ですとか時間のマネジメント能力を持ちうることができることができるのだろうか、という疑問があるためです。 まず前者の理由の具体例ですが私たち文系の人間は主に理系科目、数学、化学、物理学や地学といった科目を捨ててきました。文系科目に限って言っても人によっては日本史を捨てた人、世界史を捨てた人、地理学を捨てた人、音楽や美術を捨てた人もいるでしょう。ですがその一方で英語や現代文、古文といったような言語や想像にかかわるような科目を学習してきました。また、私含め経済ネットワーキング学科に所属している学生たちは情報系の科目も取得していると言えるでしょう。 後者に関しては私が不勉強ということもあって中身が無いように感じるかもしれませんが、人にはそれぞれできうることのキャパシティがあり、さらに取り組む分野によっても消費されるキャパシティもまた人によって異なる以上欠落なく学習できる方は限られてくるように思えるのです。 ですから、私自身欠落した科目に関して気にする必要を感じません。

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私は今回の講義を聞いて、特に知るための方法が8つもあることに驚きました。言語や知覚、信仰、理性といったように1つ1つの説明を聞くと確かにそうだと思うのですがそれを意識してやっている人は少ないのではないかと感じました。そのため、まず何かを学ぶには知る方法が複数あることを子供の時から段階を踏んで教えてさまざまな方法から個人個人が問題に対しアプローチできるようにする必要があるのではないかと感じました。そうすることでより現在求められているような多様な価値観だったり意見が生まれる環境をつくることができるのではないかと思いました。特に、ボキャ貧という言葉に代表されるように言語の面が疎かで国語というか日本語をもっと学校で教える必要があると思いました。たしかに英語や中国語といった様々な場所で用いられている言語を学ぶことでそれらの人々とのコミュニケーションが生まれたり、それらの言語で書かれた文献を読むなどして知識を得ることができるようになると思いますが自分の国の言葉が分からないのに他国の言葉を理解するのは相当難しいことだと思うので国語教育の強化が必要と感じました。

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私は、日本の教育では“自主的に自分の考えを主張する”という、日本で言えば「道徳」的な科目が、フランスの教育で言うのならば「哲学」の科目を捨てた教育の機会が失われていると感じます。私自身もこれまでの教育では“自主的に自分の考えを主張する”ことを捨てて学習を行ってきたと思います。フランスの哲学教育では、ある事柄について自分で考え自身の思考を主張することがカリキュラムで重要視されており、この教育方法は自分の主体・軸を形成していくために特に大切であると感じます。しかし、日本の教育では、すべての学習を型にはめたカリキュラムで組み込み、各個人の個性や思考を強制的にねじ曲げて全ての人(学習者)が皆同じものになることがいいとされる風潮があります。この教育方法は、大人が理想とする人間に形成されるようなものであり、私たち学習者はそれまでもっていた個性を失わされ(捨てさせられ)ることとなり、その結果は大人にとっては良いもの・得たものとされるでしょうが、私たちにとっては今後の人生の選択肢を大きく減らされていると思います。自身の考えをもち、それを主軸とする人格が今後の人生を左右していくと考えると、日本の教育では“人生を欠落させられた”と考えても違いないと私は思います。

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私は今日の授業を受けて、直感的にフランスの哲学教育と日本の哲学教育ではレベルが違うなという感想を持ちました。イタリアの学生が出すレポートが高いレベルで提出されているのに対し、教授が厳しいチェックをしていました。ここまで書けるのであれば私は素晴らしいと思いましたが、より自分の考えを高く持たせるために、細かく採点しているのだと思いました。特に、この分は根拠がまるでなく稚拙だという指摘を見た時は、私の大学でそこまで指摘する人は少ないと感じました。私はこの学校に入る際に推薦で入学しました。その際に、エッセイが3000字もあって大変だと感じましたが、今日の授業ではそれが世界と比較したらそこまで難易度の高いものではないことが分かりました。推薦入試で志望理由を長々と書くより課題にこたえて学校側がその生徒を判断していく方法のほうが大学としてふさわしいものだと思いました。他大学では志望理由や高校時代にしてきたことを書くだけですが、この学校は違いました。そのため、私の周りでは、各内容が多いからという理由で國學院大學に志望する人は少なかったです。その点を踏まえて私を含め多くの学生は大学では勉強するためにあるのではなく、就職するために必要なものという考えを捨てなくてはならないのではと思いました。

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私は「知の理論」に対する科目が欠落していることに対して、このままだと今後の世界では日本人の考え方やビジネス・外交は通用しなることに繋がるのではないかと思いました。日本国内ではどうしても「同調」や「協調性」が重視されがちで、目立つ人間は除外されがちです。そのためバカロレアであるように生徒自らが、問題解決のために方法を選び自主的に探究するといった姿勢が育ちにくい環境なのだと考えます。今まではそれでも良かったかもしれません。しかしグローバル化が日々進み世界と関わることが避けられなくなっている今日で、「同調を意識する教育」を続けてしまえば日本は世界に埋もれてしまうのではないのでしょうか。この状況を避けるためにも、哲学教育を小さな頃から触れさせ、学ばせるとともに大人になっても学べるような生涯学習といった位置づけの学習プログラムとして取り組むべきだと思います。世界の企業と互角に競争をするためには語学力を高めるのももちろん必要ですが、それ以前に思考力を高めることも外すことができません。私自身もバカロレアを読んだ時、知るための方法の一つとして信仰が挙げられるのを疑問に感じていましたが、授業内で「イスラム教の法学者はコーランに書いてないことであっても聖典に沿った解釈を生み出す」と聞いて解決しました。それと同時に私も受け入れるという概念を今後も豊かにしていこうと思いました。

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私は、この欠落についてとてももったいないと感じました。大学の経済学部に入り、経済やそのほかの科目を受講し、単位を取り、現在に至りますが、しっかりと覚え、そしておもしろいと思った講義は、いままでは、あまりありませんでした。ですが、大学四年生になり、就職活動をするなかで自己分析であったり、企業サーチをしているときに、あることに気づきました。私は、大学の講義の内容を知ることに全力を尽くしていないことを。企業サーチや自己分析は、最初は、面倒くさいものでしたが、やっていくうちに、いままで知らなかった自分の内面や納得のいく自分の内面を知れたり、日常生活で利用している中で、疑問に思わなかった仕事等を知れてとても楽しかったです。なのでこれも講義等に活かせないのかと思いました。今までの私は、講義に出ていても、大半の講義は、興味はないけれど、とらなくてはならない講義が大半で、いかに楽にとれるかに全力を尽くしていました。他の興味のある講義も同じような形でした。この行為を本当にもったいないと思っています。様々なことを好きなだけ知り、知識として身につける機会を私は、自らの手で捨てていました。例え、社会に出て使わない知識だったとしても、蓄え、ふとした時に役立つ時が必ずあると思います。興味がないからやらないのではなく、しっかりとそういったものに向き合ってから、判断すべきだと私は、そう思いました。これからまた様々なことを学ばなければならないと思いますが、しっかりと向き合ってから考えて、行きたいと思いました。

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多様な科目を捨ててきたことについて、わたしはこれからでも遅くはないのではと思います。今気づくことができれば、20歳そこらの私たちであればこれからでも充分に学ぶことのできるキャパはあると思います。ただ、これまでの欠落や、現段階の日本の教育だと、勉強をする場が少ないのではないかなと思います。また、小中高と吸収しやすい時期に学べていないことも、かなり不利なのではないかなと感じます。もし日本でも幼い頃からこの教育が取り入れられていたのなら、もっと将来の選択肢が広がっている人たちが多かったと思うし、知的で賢い人がもっとたくさん生まれていたとも思います。自分自身も、大学に入学し、なんとなくで授業を取りなんとなく受けている毎日が続いています。バカロレアの「知の理論」のような科目が存在し、学ぶことができたのなら、昔から学んでいたのなら、今はもっと違うような形で学びに取り組んでいたのではないかと寂しくも思います。これからの若い世代にはしっかりとバカロレアの「知の理論」のような教科を学んで、将来につなげていってもらえたらいいなと思うので、早くこのような科目を今これを勉強している私たちが、教科の一つにしてあげられたらいいなと思いました。

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教養教育やリベラルアーツとしてばらばら並べてあるだけなことによって、日本人の思想が私は偏ってしまっているのではないかと、私は考えます。じっくりと時間をかけて科目として扱っていないと意欲的に取り組む人が少ないと考えるからです。日本人の意識の中にこれはいらない、これはいるという固定概念が思想の幅を狭めでしまっているのではないでしょうか。そして思想の欠落はもちろん、そして引っ込み思案の特色がでてしまい、社交的な人が少ない、その人が浮いてしまうという現象につながると思います。この問題は引っ込み思案ということが良いことか悪いことかわからないが、良いことは少ないと考えています。そのため欠落をしてしまっては肯定思考が弱く、マイナスの思考が働いてくるのだと私は感じます。そして思考が必要ないと勘違いしてくると思います。人間は様々な思考があって悪いことはないと思うので、悪い意味で損が生まれてしまうことと、常識という考えが一定化されるのではないでしょうか。一般常識を備えてるのはいいことなのですが、それに捉われすぎて行動しにくいという欠落した部分も生まれると思います。 わたしは一定化について否定的な意見をもっており、このように考えました。

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まず、バカロレアは、グローバルに活躍できる人材を育てるためのプログラムであり、以下のような理念をかかげています。単に、海外の大学に進学するだけでなく、世界で幅広く活躍できるための学力や知識、思考力をつけよう、というプログラムとして設計されています。探究する人、知識のある人、考える人、コミュニケーションができる人、信念のある人、心を開く人、思いやりのある人、挑戦する人、バランスのとれた人、振り返りができる人を目指すとされ、その中でも私は、日本の大学では、コミュニケーション能力の強化につながる授業が極端に少ないと感じます。バカロレアは、論理的思考力や学術論文などによって、グローバルな視野をもって、自分で考える力を育てようというプログラムであり、比較的暗記が多い傾向にある日本とはとても差が生まれます。私は、日本はもっとこのように自分で考える力や、自分から発信する力など、自己アピールする能力を鍛えるべきだと思います。 また、出題の中には、文学部門では1、時間から逃れることは可能か2、芸術作品の説明は何に役立つのか3、ヘーゲル(Hegel)著『法の哲学』や、経済社会部門では1、道徳は政治において最良であるか2、労働は人々を分裂させるか3、ゴットフリート・ライプニッツなど、日本出題形式とは、とても異なり、私は人生において役に立つのは、様々な理由から、こちらのバカロレアであると考えます。

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この件に関しては先週も書かせていただきましたが、私はもともと国公立大学を志望していたので、割と満遍なく科目をこなしてきたと自負しています。しかし、それでも捨ててきたものは多いかなと感じています。いまだに物理学的なことには滅法弱いですし、何より言語学が非常に苦手で、英語を介さない受験方法でこの大学に入っているほどです。私は自分の欠落させてきた多様な科目は全て情報社会の進化において補えると思っていました。理科系の科目は特に捨ててきた容量が大きいですが、理科系の科目のの根源にある考え方は数学的な考え方と同じものだと感じています。また、言語学的なところも理解に必要なのは国語的な思考だと感じています。私は数学も国語もイチ高校生並にですができ、そしてそれに準ずる考え方もできるつもりですから、テクノロジーの進化によって考え方に技術を重ねることでカバーできるようになると信じています。 しかし、言語学は置いておいて、理科系科目をほとんど触れてこなかったことは少し後悔している部分があります。私が自分自身でもっと深く深く物事を知りたいと思うことはあるものの、理科的な思考力が少し欠けているのかあまり満足いく結果が得られないことがあります。学習に終わりはないと思っていますが、社会に出る前と後では学習の効率などが如実に変わっていくように感じます。学生時代の不勉強を後悔してもしきれないと思う日もそう遠くないように感じます。

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私は今回の授業のバカロレアの「知の理論」や、バカロレアの哲学試験に至るフランスの哲学教育のような、日本では教養教育やリベラルアーツなどとして学ぶことの多い学問について、私個人としてはいいと思うところ6割、残念に思うところ4割だと思っています。理由はというと日本では高校までに多くの学問を広く浅く知ることで、大学では自分の興味を持った学問を深く掘り下げていくというシステムになっていると私は思っています。そのため、私は大学に経済学、経営学の知識をメインに勉強しに来ています。そのため、自分の知りたい知識以外の学問はあまり興味が出なかったり、面白くなかったりするので余計な科目がないのは非常に助かります。しかし、大学に入学してからでも、経済学、経営学以外で興味をそそられる学問がなかったわけではありません、授業の合間に出てきた偉人の知識がもっと深く知りたくなったり、はたまた、全く関係ない心理学系統の知識を学びたいと思うこともあります。(経営学において行動心理学は覚えておいて損はないことだとは思いますが…)しかし、知りたいと思っても大学に入ってからでは知りたい科目がメインの科目と被っていて取れなかったり、取っている余裕がなかったりするので残念に思う部分です。

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私は今まで様々な単位を落としてきました。これは大学の科目だけの話ではなく高校中学とさかのぼっても数えきれないほどの試験で赤点をとり、教員を困らせてきたと思います。今まで私が落としてきた単位に共通していることといえばやはり自分の興味が及ばないということです。これはきっと私だけでなく多くの人が同じことを思い、多くの人が同じように勉強を怠って単位を落としてきたのだと思います。私が興味のない科目を落としてきたこと自体は特に反省するつもりはなく、自分の好きなことを学んで最低限卒業さえできれば両親に迷惑がかかるわけでもないため、これはこれで大学の過ごし方としてアリだと私は考えています。しかし、「知識を得る」ということに関して私は最も良くない身の振り方をしてきたと考えており、これは自分自身の教養や知識の幅を著しく狭める行為だとも考えています。そしてこれらの教養のなさや文化的知見の狭さは人とのコミュニケーション能力の低下に直結すると私は思っていて、これから社会に出て様々な境遇に揉まれてきた人々と交流を深めるにあたって障壁となると考えています。前回のFormsでも少し書きましたが、私は自分自身の知識を疑うことや相手の意見を頭から否定せずまずは受け止めることは慎重に行ってきました。しかし自分の知らないこと、興味のないことを自分から勉強したり調べたりしようと考えたことが今までほとんどなかったかもしれません。なので、これからの社会に向けて、興味がない話題にも触れていくことは大切かなと感じています。

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私は自分の関心が無く今後必要ではない科目は選択してきませんでしたが、特に後悔や受講していれば良かったなどは思っていません。しかし、大学のシステム上選択したかったが捨てることになってしまった科目がいくつかあります。1人の先生が担当するので人数の制限があるのは理解できますが、前期しか開講されていないものやその逆も然りです。私達自信が捨ててきた科目ももちろんありますが、仕方がなく捨てるということになってしまった科目に対しては、せっかく大学にいっているのに残念な気持ちになりました。 また、欠落があっても後悔していない理由は、前回、今回で学んだような哲学系の授業を受けたことがないからかも知れません。受けたことがないので、そこから得る学びや効果をしらないから欠落について考えても、強い感情や意見がでてきません。しかし知の理論について学ぶと、このような授業を受講してみたいと思いました。私は3年なので単位が落ち着いた4年生ではこのような授業を探してみようと思います。ただどういった名前の授業がこれらの内容か分からないのでわかりやすいようにして欲しいと思いました。自分で授業名を検索してからではないとシラバスが見れないのを、カテゴライズされたシラバスなど、もう少しわかりやすいようにして欲しいと思いました。

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私は大学に上がってから初めて哲学に触れました。今の子たちはどうなのかわかりませんが、少なくとも私が小中高の時に似たようなものだと道徳にしか触れてきませんでした。道徳や哲学って今思うと人間が社会生活を営むにあたってどの学問よりある意味大事な気がしますが、大して時間を割かれていなかったように記憶しています。哲学に関しては内容が難しいのである程度複雑な思考ができるようになったらの方がいいのかもしれませんが、高校くらいで導入してもいいのでは?と感じます。というか、私の高校だと1限分にあたる50分間丸々を使用した道徳の時間というのはなかった気がします。国語、数学、英語などの主要五科目は無駄に細分化されて義務教育の六年間ないしは高校三年間勉強してきましたが、社会生活の営みや人間の本質的な部分に関わるであろう事柄はあまりはっきり勉強した記憶がなく、今もこうして一般的な人間として生きてきているのは「これはこう」、「こうしたら駄目」など、何となくふわっとした意識で認識しているだけに過ぎないのだと思います。恐らく多くの人は国内で生まれ国内で生き、国内で生涯を終えるでしょう。よって国外の文化や思想に深く触れる事はなく、ネットや教科書で外殻に触れる程度だと思います。国際バカロレア内での目的に「国際的な視野を育む」とあり、今後グローバル化が進んでいくであろうことを考えると今の日本の教育はあまりよろしくないのかなと考えました。

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日本では知の理論といった科目が普及していない原因として基礎科目を世界で最も重要視するからだと考えます。私自身は今まで自分に必要性を感じない、興味ない科目はスルーしてきました。しかし興味もない、単位潰しのために履修した適当に選んだ科目を受けてるうちにおもしろいと思ったり、興味深い、知識となって後で役立つなんてことも経験したことがありました。そう考えると今までスルーしてきた科目の中にはもしかしたら自分の教養となるような科目もあったのではないかと思ったりもします。大学の中にも科学、物理、数式をテーマとした科目が存在していましたが自分は文系で理系科目に対してかなりの苦手意識があり見向きもしませんでしたが地学がメインの科目を履修したことがあり非常に面白かったことがありました。これらの経験から自分も含め学生はもっと広い分野の科目を学ぶ必要があると思いました。様々な知識をつけることによって考え方や表現の仕方に偏りを持たず多角的な考え方、表現ができるようになると思いました。

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私は、日本の大学で学べていないことを不満には思いません。幼稚園、小学校、中学校、高校など、日本は中学までが義務教育トなっていますが、だいたい高校までが日本で生きていくうえで学ばなければならないことを学んでいきます。しかし、大学というものはそもそも学びたいものがある人が自分の学びたいことのために学ぶための場所です。とくに勉強をしたくない、学びたいことがない、と考える人は学ばなくていいのです。そのため、自分の学びたいことを学ぶ場所が大学なので、日本にない科目があったとしてもわたしは不満なことはありません。しかし、多くの人は将来就職をするために、学びたいことが特になくても大学に行っています。将来やりたいことが決まっていない人なども大学でより学んで3.4年でやりたいことを見つけるという人もいます。しかし、学部、学科があり、自分の学びたいこと、将来に1番役にたつ学部、学科に入学します。そのため、やりたいことが決まっていない人も、だいたいはなにを学ぶかを決めて大学に入っているわけです。幼稚園、小学校、中学校、高校といった興味のない授業を大学では学ぶ必要がないので、日本の大学にその科目がなかったとしてもいいと思います。

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私は国際バカロレアやフランスの哲学教育に準ずるような科目の欠落は望ましくないと考えます。バカロレアの哲学試験の内容を見てみると徹底的に論理的であるように思います。大学へ入学するための試験であるバカロレアの時点で大学での研究に必要な論理的思考を問うているように見えます。授業であったバカロレアの添削の内容を見ていると、何かを示す際に何かしらの具体的事例を用いるなどして証明を求めていたり、明白な定義を求めていたりしています。このようなことは大学の課題等では当たり前に要求される部分です。しかし大学以前では知識を自体を問われ、このようなことはあまり問われることはないものになります。前提として知識を十分に持つことは重要ですがこれ生かしをきちんと構築するといったことは不足していると思います。現在私が実際に課題などを通じで実感していることですが、完全に欠落や飛躍が内容に考えることは十分に実践を積まないと難しいものだと思います。大学での学びをより充実したもの日するために高校または大学1年目にでバカロレアの哲学に準じる授業を行うべきだと考えます。

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私は経済学部でありながら、数学が大の苦手です。高校時代は数学1Aだけ受けてそれ以降全く触れていませんでした。しかし大学に入って、いくら國學院といえど流石に積分や二次関数を使う授業があり、現在かなり苦しめられています。高校時代公民が得意という理由だけで経済学部を志望したため、大学での学びの理解が充実したものとは到底言えなくなってしまいました。今回の授業の内容はつまり物を単一の視点から見るのではなく、多角的な視点で検証していくことで物事を正しく理解することがテーマだと思います。日本の大学は近年専門的な知識をつけることに重点を起き過ぎた結果、同じ専門領域の中でもテーマ毎に乱立し、そのテーマを外れると、まったく詳しくないという事態が起きています。バカロレアの哲学試験に代表されるような様々な専門領域の知識を総動員して問題解決に臨むという考え方は、おそらく一周回って現代に必要とされるスキルなのではないだろうかと私は考えます。ではそのスキルがどのような人間に必要になるのか。それはやはり人の上に立つ人間です。人間というのはどうしても自分の意見が正しいと思い込んでしまう生き物ですから、専門知識だけの人間が集まってもまとまりません

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知の理論の性格だったりどんな人かの説明を聞いたときに、現代の若者に足りないものが多いように感じました。少しはあてはまっても、それが完全に目標到達までには要件が満たせていないように思います。

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