情報倫理とセキュリティ2020後期08表現の自由と沈黙のらせん

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1. 表現するためのメディアがこんなにも多彩になったのに、なぜ私たちは表現を抑制しがちなんでしょう。今日の講義内容を参考にして、あなた自身と友人たちについて自己分析してみて下さい。500字以上。ラジオトークのように「私」を主語にして「ですます調」で書いて下さい。締切は2020年11月14日午後11時30分。

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なぜ私たちは表現を抑制しがちなのかを自己分析しながら考えていきたいと思います。 まず、SNSが普及している今、表現するためのメディアといえばTwitterやInstagramなどが挙げられます。Twitterで思ったことをつぶやく、Instagramでストーリーに投稿するなどといったことも表現するということだと思います。 ではなぜ抑制しがちなのかということですが、私はこう思います。 私は、TwitterでもInstagramでも「この表現を第三者に見られたときに何も問題がないか」を常に考えるようにしています。この表現は相手を不快にする、あるいはこの場で述べる表現ではないと判断した場合、投稿すること自体をやめます。プライバシー保護にもなることもありますし、その間違った表現が誹謗中傷につながってしまえば大問題です。 ですが、この行為が、「表現の抑制」にもつながっているのではないかとも思うのです。 私の友人の場合では、実際に私が見ていて不快に思うような投稿を目にすることもあります。その場合、あまりにもひどい内容であれば、本人に忠告します。私がその友人の投稿をミュートしてしまえば私の目には入ってこないですが、他にも別の友人で、その友人の投稿を不快に思う人がいるかもしれません。それを考えた上で、その友人のためを思い、忠告します。私自身は友人のためを思ってした行為でも、それが「表現の抑制」につながっている気がします。 なぜ表現を抑制するか、それは自分を守るためであり、人の尊厳を保つことだと私は思います。

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現在、SNSの普及などで自由に表現をする場所が増えたのは確かだと思います。しかし、私がそれでも表現を抑制してしまうのは、言葉で伝える力が弱いからだと思います。だからこそ表現することにあまり自信が持てず、その中で何を伝えたいのかが明確でないこともあります。頭の中でわかったつもりになっているだけでは、伝えたいことを自分の言葉で話すことは難しいです。 私の友人の中でも本や活字を読むことが好きで、言葉をよく知っている友人はやはり、話し方や伝え方が適切で上手く、わかりやすく、印象に残りやすいです。そこで私が違いを感じたのは、具体的な表現をあまりしていないと感じたことです。具体的な言葉ではなく抽象的な言葉でかつ擬音語や擬態語が多いと、たとえ流行りの言葉で友人たちの間では通じる言葉や表現でも、それ以外の方には伝わらないような言葉や表現は多いのではないかと感じます。話す時に、具体的で記憶に残りやすく、わかりやすい言葉で、その中に具体例なども入ってくると尚伝わりやすいのではないかと思います。また、聞き上手は話し上手などとも言うので、日常的に会話をするときなどに相手の気持ちに共感する習慣をつけ、相手の気持ちを理解し、その時の状況にあった会話を続けることが重要だと思います。お互いを理解して、相手の存在を意識して学んでいきたいです。

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表現するためのメディアがこんなにも多彩になったのに、なぜ私たちは表現を抑制しがちなのか、私は、自分の意見を表現することによって周囲から嫌われてくない、批判されたくないからです。私たちの表現を抑制してしまうことを踏まえた機能も存在していて、まさに、Twitterの非公開機能、Instagramの非公開、または親しい友達機能が該当すると考えます。実際に私は上記した3つの機能を使っていますし、なぜ使っているかと問われたら、私の意見や感情をありのままにさらして同調してくれるだろうと思っている友人にしか見せたくないからです。私は反対されること、批判されることが苦手で、ましてやそこまで親しくない人に批判されると大分気分が下がります。少なくとも、上記した機能を使っている周りの友人は同じことを考えていると考えています。現代の日本は多数派が正解、少数派が不正解、そんな時代だと感じています。そんな時代だからこそ、表現の自由があっても、自分の意見を曲げてでも、正解の側にいたいし、もし絶対に少数派の意見だとしても、正解派からの同調圧力に耐えきれないです。今の時代の人は全員、周囲に嫌われる怖さ、義務教育の段階で一度は味わっているのではないでしょうか。その恐怖を知っているからこそ、改めて自分からその恐怖を再度味わいたくないがために、多数決の多数派にいたいと思うし、周りと同じ意思を持ちたいと思っていると考えました。そのため、SNSなど、表現するためのメディアがこんなにも多彩になったのに、少数派の孤立の恐怖を感じたくないから、私たちは表現を抑制しがちなのだと考えます。

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私は表現する媒体が多彩であるにも関わらず、日本人の性格や文化が原因で、表現を抑制してしまうと考えています。今回の講義で野村先生がおっしゃっていたように、少人数の授業で積極的に発言することはあまり無いように感じます。実際に私が友人の何気ない意見と反対の意見をいった時、友人はいい気分ではなさそうでした。私の友人は私とのコミュニケーションの中で、友人の意見に同調して欲しかったのだと考えます。友人の話に反対意見を言うと、そのまま話を続ければいいのに、話を辞めてしまいました。なぜ友人がこんな風に話を辞めてしまったのか考えた時に、日本の文化が関係していると考えました。日本ではタピオカや鬼滅の刃など流行が一世を風靡する傾向にあり、これは同調圧力が強く働いているからだと思います。そしてみんな同じであることが求められている社会ですから、他人と違う意見を発言すれば、悪い意味で注目され非難の対象となります。下手に周りと違う意見を表現することで周りとの関係があやふやになるくらいなら、黙っている方が得策だから、表現しないのだと考えます。日本においては特に意見を合わせることがより円滑な人間関係を築けると予想しました。最後に、表現を抑制してしまうのは、他人と違う意見を持っていることを恐れ、それを表現した時に後ろ指さされることが怖いから、私たちは表現を抑制している、と考えました。

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表現の制御とはいつから顕著になってきたのでしょうか、考えてみれば昔は首がはね飛ぶホラー映画『OMEN』や、「キチガイ」と作品内で地上波のアニメ作品で発言するシーンなどが、存在していて色々自由に表現していました。しかし、2000年代の少しあとになってくると、おなじみのビデオゲームのレーティングが上げられ、今まで規制の入らなかった全年齢対象の任天堂のアクション・アドベンチャーゲームのゼルダの伝説シリーズの2006年発売の「ゼルダの伝説トワイライトプリンセス」で史上初の規制がかかり、CERO(Computer Entertainment Rating Organization 特定非営利活動法人コンピュータエンターテインメントレーティング機構)12歳以上が対象とされました。当時、これはとても話題になり記憶に残っています、なぜならば、全年齢対象のゲームを作るのが任天堂だからであって、この任天堂のゼルダの伝説シリーズで初の年齢規制の入る作品となったわけで、全年齢対象ではない任天堂とは?とユーザーたちは思っていたからです。ではなぜ、規制がかかってしまったのでしょうか、具体的な内容は、万引行為が犯罪表現とされてしまったためです。我々の世界で、表現するメディアが豊かになってきたからこそ、規制をかけねば犯罪につながるという秩序だった動きであるのかもしれません。実際に真似をして犯罪を犯した人も居たわけで、せめてできることがこれくらいだったのでしょう。

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私たちが表現を制限したがるのは理由は人には何かを隠したいという後ろめたい感情があるからと、自分の利益を守るためだと思います。誰かが何かを表現するときそのことについて褒める人かいればその反面、そのことに対して批判する人もでできます。わかりやすい例として芸能人のゴシップや政治についてあげられます。もし、既婚の人気の芸能人が不倫をしたとします。当然、マスコミにとってはこの話題は世間を賑わす絶好の話題です。しかし当の本人たちにとってはこの話題は世間に出回って欲しくない話題であり、事務所は報道に制限をかけます。誰かに対してはプラスの情報でもまたもう片方はマイナスの情報かもしれないのです。私たちの日常にも言えることはたくさんあります。二つ目の自分の利益を守るために表現を抑制するのは私がよくやるやり方です。日常生活において表現を制限することで自分のメリットになることは多いいと思います。例えば、いつも遊んでいる友達が似合わない髪型をしてきた時、素直にそのことをいうよりはそのことを制限することで友達との有効な関係が保つことができます。嘘も方便と言うことわざもあるように素直に思ったことを言うよりは心に留めておいた方が人間関係を構築する上では役に立つことが多いいと思います。

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 多彩なメディアを私たちが利用していながら、私たちが表現を抑制しがちであるのは、表現する側に責任が伴ってしまうからです。特に、現代のメディアは急速的に発達をしており、過剰なまでの拡散力を持つようになっています。そのため、無責任な表現を行い、それがメディア上で拡散されてしまった場合、他人に誤解を与えてしまったり、トラブルを招いてしまう可能性があります。  また、現代では、意見の同調を求めるような社会的圧力が掛かっており、少数派の意見を持っている人々が公の場で意見表明をした場合、多数派から批判されることや孤立させられる可能性があります。  そのため、人々は多数派の意見を持っていた場合、積極的に意見の表明を行いますが、少数派の意見を持っていた場合、公の場での発言は避けるようになっています。  このような現象は、沈黙の螺旋と呼ばれるもので、現在では、鬼滅の刃ブームによって発生している鬼滅の刃ハラスメント(キメハラ)がこれにあたるのではないかと私は思います。  特に、昨今のテレビ番組や新聞といったマスメディアにおいては、鬼滅の刃に関するニュースが大きく取り上げられるようになり、面白さや人気を大衆に押し付け、同調圧力を掛けるようになっています。  これによって、現在では、鬼滅の刃がつまらない、興味がないといった少数派の意見は、公の場では言ってはいけないような風潮になってしまっていると私は感じます。

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私自身を分析すると、良くも悪くも自分以外にあまり興味がありません。そして人のいうことを信じることを素直に行えません。たとえば商品のPRなどを見ても私はこれはステマであり会社が頼んで売れるように紹介してもらっているのだろうと考えてしまいます。それを購入して良い!と言っている人は良いという先入観に囚われてよく感じてしまっていると捻くれた考えになってしまいます。しかし私の周りの友人は私とは真逆に人の言っていることをとても真に受け、信じがちです。そのような商品のPRもそうですし、例えば友人を困らせてしまった時に相手がいいよ!といえばよかったんだ、と感じとります。私はそのような時には本当は嫌なのに嘘をついているのではないかと勘ぐってしまいます。表現というものは難しく、人によってそれ表現の受け取り方が著しく違います。そこでそれを嫌と感じる人、いいと感じる人とのすれ違いが生まれるために社会では表現が難しくなっていっているのではないてしょうか。

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私が考える、表現するためのメディアがこんなにも多彩になったのに、私たちは表現を抑制しがちな理由は、周りにどう思われるかが不安だからではないかと感じます。私自身も、インスタグラムにおいて、皆んながフォローしてくれているアカウント以外に別のアカウントを作っています。私はファッションやメイクが好きなので、自分自身の洋服の写真などを、その別のアカウントに載せています。あまりにも自分を載せすぎて、周りにどう思われるかが不安なので親しい友人しかフォローしていません。同様に、私の周りの友達も同じような趣味のアカウントがあります。私と同じ感情で、皆んなに見せたいけど、どう思われるか怖い、などの孤独の恐怖を感じたくないのだと思います。他にも、私が高校生の時、思ったことをさらっと呟けるツイッターがとても流行っていましたが、友人が呟いたことを、次の日クラスの子が悪口を言って、その子が仲間外れにされてしまう事を身近で見たことがありました。私はその経験を通じて、仲間外れにされてしまい、一人になるくらいだったら、思ったことを呟くのはやめようと抑制していました。このような経験は私だけでなく、沢山の人が経験していると思います。なので、自分を表現することによって、孤独になる恐怖を感じてしまうのではないかという不安から、人々は自ら表現を抑制してしまうのではないかと考えます。

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私たちは、小学生の頃から差別や言葉の暴力はダメといわれ続けてきています。現代では、あだ名も禁止されるほど厳しいです。そのあだ名で傷がつく子がいるからです。ですが私は、あだ名は大人になって距離を縮めるためのひとつの手段だと思っています。さらに、小学生はの呼び方は、「くん」、「ちゃん」ではなくなってきているようです。私はそれもおどろきでした。そして私たちは、学校の教育で人種差別や言葉の暴力はいけないと散々言われてきたのです。それはいけないことなのでダメと教わってきたのは分かるが、そこまで制限しなくてもよかったのではないかと思いました。それが、今の表現の抑制されている原因のひとつだと思います。抑制されているのは、表現の自由が悪い方向にいっている人が多いこともあると思います。例えば、Twitterは表現が自由の場だが、そこで自由に発言している人が、ある一人の人を追い込んでしまうこともあります。ごく一部の人のせいで、抑制がかかっているといっても過言ではありません。メディアは多彩な表現をすることにより私たちに伝えます。多彩だから伝わるものもあると思います。それは、私たち個人でも同じなのでもっと表現は自由になっていっていいと思います。ですが、その規律を守らないひとには抑制がされたままでもいいのにといろいろ難しいところです。私は、今後いまよりも表現な自由な世の中になってほしいと思いました。

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私はインターン会社名を記載しているSNSアカウントを管理しています。そこでは、正直な発言をしたり、自分が思っていることをツイートするのを抑制しています。もちろん、会社名を記載しているからという責任ありますが、1番の理由は、自分の意見や感想よりも多くの共感を得るものの方が他者の反応が良いからです。私はフォロワーを増やすためにそのアカウントを管理しているので、より多くの反応を得るために自分の表現を抑制しています。 友人もフォロワーの数に凄くこだわっていました。その友人は芸能関係を目指しているようで、いくつかのメディア上で審査や評価が行われるそうです。そのような場で本当の自分をさらけ出せるとは思えません。本当の自分であるかのように表現しますが、実際は周りからの見られ方が気になると思います。 フォロワーの数は人気をダイレクトに視覚化します。数に応じてあらゆる力を持ちます。例えば、PRや案件による収入源になったり、セミナーや説明会の集客、アンケート調査などです。表現するメディアの数は多彩になりましたが、以前のように、自分の意見を述べる場所では無くなってきているのだと思います。自分のやりたいことなどをと実現に向けより多くの共感、支持を受けたいがためにメディアを利用するので表現を抑制するのだと考えます。

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私は、インターネットやSNSが普及するなど表現するメディアが多彩になったのにも関わらず私たちが表現を抑制しがちな理由として同調圧力があると思います。特に日本人はこの傾向が強いと思います。例えば、私は複数人の友達と遊びに行く時にLINEなどで行く場所を決める際に返信が遅れてしまい、行く場所が決まっている時に私はあまりその場所に興味がなくあまり行きたくない場合でも他の友達がそこでいいじゃんといっている時は自分も便乗してしまうことが結構あります。私はめんどくさがりなので決まっているならそこでいいやという気持ちもありつつ、同時にここで否定したらせっかく決まっているのに水を差す感じがして自分の意見を引っ込めてしまいます。また、私はTwitterなど大多数の目に触れるSNSに自分の意見を投稿するのも躊躇う傾向があると思います。自分みたいにフォロワーが3桁程度のアカウントでは炎上なんて滅多にないと思いつつももし炎上したらどうしようとも思っているのでフォロワーと話す場合はあまり気になりませんがフォローしたないアカウントや大手新聞社の記事などにリプライすることは結構躊躇ってしまいます。

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わたしは表現を抑制しがちではなく、どのように表現したらいいのか時々わからなくなります。言いたいことや、伝えたいことはあるけどどのような言葉にして伝えたらいいのか難しいときがあります。それは言い方や、言う時の表情によって、相手への伝わり方が全然変わるからです。LINEやInstagramなどでやりとりをする時、文だけになってしまいます。普通に「ありがとう」と言うのと、「ありがとう!」とびっくりマークをつけるのかつけないのかで全然違うと思います。びっくりマークをつけた方が明るい印象があります。なので文だけでは誤解されることが多いので、絵文字や記号をつけた方が自分自身を相手側も気持ちがいいと思います。また最近では、SNSの誹謗中傷が多いです。そう言った面では、表現を抑制すべきだと思います。何でもかんでも自分の言いたいことを相手に言っていいものではありません。表現するためのメディアも多彩になってきましたが、メディア側も相手側の気持ちになって表現していくべきだと思います。自分が言いたいから、自分がこのようにしたいから、といった自分一人の気持ちだけで安易に表現することはわたしは反対です。表現をもっと表に出すことは他にたくさんあるので、そこを抑制せずどんどん出していけばいいなと思います。抑制する場面と、しない場面、使い分けていったら最適だと思いました。

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どうして自分と友達は思ったことを表現するときに抑制してしまうかというと、その関係性を無くしたくないという思いがあるからだと思います。なぜなら、もしその発言をして友達が嫌な気分になったら気まずい関係となり今後関わることがなくなってしまうからです。自分も友達と話すときは相手のことを考えて話すように心がけています。思ったことを全て発言してしまったら今の友達とは関係は無くなってしまっていると私は思います。例えば、友達と何か揉め事があったときにもイライラしているかもしれないがその感情に任せて発言すると間違いなく喧嘩が起きてしまうでしょう。しかし、表現を抑制することによってお互いの感情がぶつかる事は少なからず無くなり、関係性を壊すことはないと思います。自ら関係性を壊したい人なんていないと思うし、一緒にいたら楽しいと思っているからこそ、発言を抑制してその関係性をなくさないように日々生活しているのだと思います。このように自身と友達との間に表現の抑制があるのはその友達を大切に思い、関係性を壊したくないという意思から表現が抑制されているのです。また、思ったことを発言して相手側がどう受け取るかが分からないが故に頭の中で勝手に抑制しているのかも知れないと私は思います。

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私たちが表現を抑制しがちなのはそのような風潮を自分たちで生み出してしまったからだと思います。例えば自分が好きな食べ物がブドウだとして他の5人がイチゴを好きだと言ったら、仲間外れにされてしまうのではないかと考える人が大半だと思います。あくまでこの話は極端な例ですが、これは自己主張をする人が少ないというのと相まって余計に個人の抱える意見を捻じ曲げる落とし穴になっているのだと思います。またその中にも自己主張が上手くできる人は一定数いるわけですが、そういった人たちが大半を占めた場合ぶつかり合いになってしまうので、ある意味ここが今の人間社会をうまく過ごしていく術になっているのではないでしょうか。私が最近よく感じるのは国会議員の無力さです。自分よりも上の立場の人の意見に便乗しておけば何とかなるだろうというような考えの人が最近とても多いように感じます。同調圧力が存在しているような政治界では頼りなさすぎるので本当に心配だと私は感じました。だからこういった風潮を少しずつ転換していって変えていく事が本当に必要だなと私は感じました。表現を抑制している壁を乗り越える打開策を切り開いていけたらいいと思います。

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私たちは多彩でなメディアがある中で表現を抑えてしまっているのでしょうか。今の日本というか、日本という国は昔から世間や他人を気にしすぎるという特徴があります。他人と違う意見を言うと周りから孤立してしまったり、反発にあうということが少なくないため、周りに合わせるように動いてしまうのです。これに関しては私も子供のころ、学校で周りに合わせるように言われたことがよくありました。小さなころからそのような教育を受けてくると自分を表に出せない人が必然と増えてしまいます。他にも今のメディアの中で世論にそぐわない表現をした人々が世間から反発を受けている姿を目の当たりにしているからではないかと思います。実際にツイッターなどを見ていても芸能人が政治的発言をすると多かれ少なかれ批判の声が上がっています。「〇〇は安倍と仲がいいんだ」や「〇〇は共産主義者で売国奴だ」などというリプが飛んでくるのです。右側だろうが左側だろうがどちらでも批判は上がります。こういうのを目の当たりにしている人々からすると政治的発言は避けようとリスク回避に向かうでしょう。そうなることで何か思っていても自分の中で納めておこうという風になってしまうのです。正直ツイッターの趣味のアカウントで政治的な争いがあるとうざったらしくて嫌になります。表現を抑えがちになってしまう要因である世間的な同調圧力もどうかと思いますが、政治的なものに関して嫌悪感を抱く人が少なくない中、批判などを飛ばしてくる人なんてほんの一部であると考えるべきなのかもしれません。自由な発言をするかどうかも自由な世の中なので、人それぞれの考えで人それぞれの表し方をしていくべきではないかと私は思います。

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現代、表現をするためにメディアが豊富になったにも関わらず、私たちが表現を抑制しがちなことの理由として、逆に表現をするメディアが豊富になったためと私は考えます。これには、「沈黙のらせん」という理論が当てはまると思います。沈黙のらせんとは、人々が周囲の意見や情勢を観察した時、自らの意見が多数派の場合は、公表するが、少数派の場合は、社会的孤立を避けるために意見を公表しないことを選びます。その結果、多数派の意見が顕著になり、少数派の意見は出てこないという連鎖が起き、多数派の意見が世論を形成するというものです。これをメディアが豊富になった今に当てはめると、有名人が一つの意見を述べた時にそれに賛同するフォロワーが拡散をし、トレンドに入ったりを繰り返し、最終的にその有名人のことは知らないが、一般的にそうなっているのではという多数派の存在を生み出します。そして、その有名人とは違う意見の少数派の人間は、炎上などの面倒ごとを恐れ、その意見を述べません(もちろん、その少数派の意見を述べる人間もいますが)また、最近は、SNSでの出来事をテレビ局が取り上げて放送をするということも起きています。このテレビ局がSNSでの話題を取り上げるという行動がより、SNSをしていない高齢層や情報を得る手段が少ない人に広められ、多数派が増えると共に少数派は、意見を出しづらくなるということが現代のメディアが豊富になったにも関わらず、私たちが表現を抑制しがちという理由の一つとして私は、考えます。

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メディアは違った視点からの意見を交換したり、話し合いをしたりする構図が取られることが多いことから、表現が多彩になっていったのだと考えました。それに対して、わたしたちが表現を抑制するようになっていった理由として、孤立したくないから、という点が大きいように考えました。わたしは、話し合いの場などで意見を出す際、少数派の意見であることが多いため、あまり自分から最初に意見を言い出すことが難しいと感じていました。自分や周りの人が表現を抑制してしまう理由に、そういった少数派になる、孤立することに対する不安を感じているからだと考えます。少数派になることを恐れて、意見を言わなくなってしまうことで、ますます少数派の意見は他人に届かなくなり、多数派の意見以外は存在しなくなってしまうのだと考えました。空気を読むことは、多数派の意見に同調する、余計なことを言わないことに繋がると感じます。また、孤立を恐れる以外に、表現を抑制しがちになってしまう理由に、先に意見を言うことで自分が不利になると感じているから、と言う点があるのではないかと考えました。他人の意見を聞いた後から話すことで、同調したり後出しじゃんけんのように有利な立場を取ることができたりするのだと思います。

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SNSやメディアにおいて、TwitterやInstagram、Facebookなど私たち一般人においても多様に利用ができるSNSが増えてきました。私たちはメディアにおいて多様な表現方法があるにも関わらず、あまり表現をせずに抑制しがちな傾向があります。その理由としては色々なものが挙げられます。日本国憲法において『表現、言論の自由』というものが認められています。もちろん何でも表現や発言をして良いのかというとそうではなく、一定の制限や制約はあります。しかし、私は近頃において今まで以上にこういった自由がなくなってしまっているのではないかと考えます。最近はニュースなどにおいてSNSにおける誹謗中傷などが頻繁に取り上げられており、誹謗中傷が原因(直接的な原因かは不明)で芸能人が自殺してしまったり、裁判で訴えられてしまうといった事例も見かけます。もちろん誹謗中傷をするのはいけないことであるし、そういった発言等によって人を傷つけてしまうのは人権の侵害に繋がってしまいますが、あまりにも誹謗中傷を気にしすぎるあまり、表現の自由が奪われてしまうのも良くないことだと私は思います。ただ、表現の自由という人権を利用してほんの冗談で悪口を書いてしまった、悪気はなかったなどと言った言い訳をすることは絶対にいけないことだと思いました。

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私は、表現するためのメディアがこんなにも多彩になったのに、私たちは表現を抑制しがちな主なの理由として、最近問題にもなっている誹謗中傷が挙げられると思います。本来ならメディア(SNS)が普及して自分が表現できる場が増えたことは喜ばしいことなのかもしれないが、最近の社会の傾向を見ると、私はネットが社会全体に普及したこと自体が誹謗中傷が増えてしまった原因であると考えます。例えば、記憶に新しいもので衝撃的だと思ったのが、芸能界で次々と自殺してしまう人がいたことです。2020年5月に人気リアリティー番組に出演していたプロレスラーの方が、番組内での言動を巡ってSNS上で誹謗中傷を受け、亡くなった。報道によると、SNS上では、「早く消えてくれよ」「吐き気がする。」など、中傷する書き込みが複数されていたという。私はこの事件から誹謗中傷での自殺が強く問題視されるようになったと感じています。 私は、だれか1人がつぶやいたことに対して、それを見た人たちが流されて同じように誹謗中傷のコメントをしてしまうことが多いと感じます。人間なので、その人をよく思わなかったり批判したくなる気持ちが出てきてしまうのもわかります。しかし、それを多くの人が見ることができるSNSなどのメディアにわざわざ書き込む必要はないと思います。

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現代社会において表現するためのメディアは昔に比べて飛躍的に多くなりました。その代表的な例がSNSと言えるでしょう。SNSがこんなにも発達しているのに私たちはしばしば自分の考えを発言する事を抑制してしまいます。発達し過ぎたSNSは、より多くの人に見られてしまいます。自分の意見に賛同してくれる人だけに届くのではなく自分とは全く違った考えを持った人のところにも自分の発信が届いてしまいます。社会は逸脱した個人を孤立させるように脅かします。もし、自分の意見が世間一般の意見とはズレていた場合、表現の自由があるのにもかかわらずSNSで拡散された場合多くの人からバッシングを受ける事となります。個人は人生の中で孤立の恐怖を常に警戒しています。孤立の恐怖によって、個人はいつでも意見の風土を評価しようとします。この評価の結果は、公での場での行動、とくに意見の表明あるいは意見の沈黙に影響を与えてしまいます。私たちはよくSNS上で大勢の人からバッシングを受け、炎上してしまっている人をよく見かけます。そのような事態に自分が巻き込まれないために私たちは自分の意見は無難なものに控えるか発言せず沈黙を貫くようになっていっているのだと私は考えます。

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私は、「表現を抑制する」という行為は開放的な場で起こりがちではないかと思います。開放的な場とは現実・SNS上を問わず、多くの人の目につく場所ということです。これはまさに沈黙のらせんそのものですが、周りの視線を気にしすぎるあまり、当たり障りのない表現になってしまいがちだと思います。特にSNSの発達はその風潮を増長させているのではないでしょうか。様々なツールで多くの人とつながっているという事実が、表現の抑制につながっているのです。もし、逸脱した表現や思考があれば、炎上という結果につながることもあり、開放的な場での表現は抑制される方向に無意識的に動いているのではないと思います。 一方で私や親しい友人も含め、SNS上で自由に表現できる場を求めて、第2のアカウント、いわゆる「裏垢」というものを作成しています。気心の知れた仲間内だけのコミュニティを構築して、その範囲でのみ自由な表現をするようになりました。現実で言い換えるならば個室の居酒屋のようなものです。 このことから、いかに開放的な場で表現を抑制しているかが分かります。SNSでは特に「#(ハッシュタグ)」を用いることで、皆の共感を得ようとすることが多いです。換言すれば、同調圧力がより一層強くなる可能性を持った場所であるということです。そのような性質を理解すればするほど、表現は抑制されるのではないかと思いました。

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私は日本のイメージとして、控えめというか、意見を強く主張しない、沈黙しがちというイメージがあります。それは良い面と悪い面があると思います。現代では表現するためのメディアがこんなにも多彩になったのになぜ抑制しがちなのだろうと考えたところ私にも心当たりがあるなと思いました。授業内で滑りやすい坂道での議論になる可能性があるため、自分が思っているより下に転がっていく、表現したことが思わぬ方向に転がる可能性があるということを言っていました。表現しやすい環境も増えたと感じますが、一方このような可能性も大いにあり得ると思います。多くの人が自由にその表現したことに対しても意見できる場が増えたと思います。その人のことを知らなくても、どういった背景があってこのようなことを表現しているのだろう。そこまで考えてメディア上で表現している人、意見している人はどのくらいいるのでしょうか。そのような恐怖感から表現することを抑制していると思います。また、授業内で感情を害する、害されるとありましたが、私はここに強く共感しました。表現をするためのメディアは揃っていますが、表現の仕方を一歩間違えることや、それを見た方の感じ方によって、自分が感情を害する可能性、自分を否定される、生きられなくなるほどの環境に陥る可能性があります。私は自分で発信していく力、表現する力がありません。むしろ、その力が欲しいため、表現している人を見ると、とても勇気を持っている人なのだな、精神力の強い人なのだな、強い思いを持った人なのだなと思います。よくミーティングの場では、沈黙の状況になります。沈黙は様子を見ているということを授業内でおっしゃっていて、納得しました。孤立への恐怖があるからこそ沈黙という状況が生まれると思います。日本人は温かい人が多いと思いますし、もっと人を信じて自由に生きれる、表現できる環境になったらなと思います。

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今回は表現がより豊かになったのにもかかわらずなぜ抑制するのかということですが、これは単純に豊かになったことにより、良くも悪くも色々な事に使う機会が多くなり、悪い面だけを見ればじゃあ抑制しようかということになる訳なのです。例えばSNSの進化、普及は良い面を見れば他人と気軽に連絡を取ることが出来るようになりましたが、その反面不適切な表現で無意識に他人を傷つけてしまったり、または意識的に相手を誹謗中傷したりして犯罪にまで発展するほどです。良い面はそのまま何もしなくても良いのですが、悪い面を見た時には、ツイッターで言えば「じゃあ一部の好ましくない言葉を含む文章がツイートされた時にはそれを運営側で削除しよう。」という感じに何か対策をしなければということで抑制という手段を取らざるを得ないのです。また最近ではコロナウイルスに関する偽の情報が拡散していたのが話題となっていましたが、情報の拡散が出来るという面だけ見ればむしろ良い手段だと思われると思います。しかし、その情報の中に偽の情報も含まれているために、何か対策をしないと、という風になってしまうのです。世の中には色々な人がいて、どれが正しく、どれがそうでないのかある程度判別できる人もいれば、どの情報も鵜呑みにしてしまう人もいるのです。そしてどちらを優先的に保護?しようとする時には後者になってしまうのです。 表現が豊かになって表現の自由度が増していく中でも、あるところでは抑制や制限をしなければいけません。それがたとえ良い面までも一部抑制してしまうことになったとしてもなのです。

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表現するためのメディアがこんなにもあるなかで、なぜ私たちは表現を抑制しがちなのでしょうか。発言内容にもよりますが、表現の自由は守られていいと思います。誰かを傷つけるなど、誹謗中傷や名誉毀損にあたるようなことがない程度という、暗黙のルールがあってもいいと思います。「表現の自由」は必要ですが、表現する側にも責任を認知し、なにかしら影響を与える事実を知った上でなければいけないと考えます。また、自分がその発言に責任を持てるのであれば自由は守られるべきだと思います。無責任に好き勝手いうのは自由ではないです。いくら「自由」だからといっても、個人名や企業名を公開して誹謗中傷を行ったりプライバシーを侵害したりすることは、現実社会同様、罪に問われることになりかねません。しかし、「自由」として許されるかどうかの線引きは各個人の判断に委ねられる部分が多いのが現実です。また、投稿者側だけでなく閲覧者側のリテラシーの必要性も問うべきだと考えます。たしかに、ネットを含めメディアから流される情報のよしあしは、あくまでも情報を受け取る側が自ら判断するべきものですし、「表現の自由」はその上で成立しています。以上のように表現するメディアが多彩にありますが、自由の中にもさまざまな制限が存在します。それゆえ抑圧しがちな傾向にあると感じます。

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私自身の場合表現するメディアが多彩になっていてもあまりメディアを通して表現をそもそもするタイプではありません。別にメディアがダメなわけではなく、対面で個人と話したりするときの方が好きだということです。なので公の場で周りを気にして発表しないことはなく、恥などもあまりないので自分の声で発することは何とも思いません。メディアと対面を比較した場合圧倒的に対面の方が好きなのであり、昔からあまり触れたことがないことからあまり興味がわきません。Twitterやインスタグラムのアカウントはもちろん持っています。しかし、どれも情報収集の手段の延長線の観賞用としての用途が主であり、何か大きな意味を持った発信はあまりしません。ツイートなどをたまにしますが、自己満足でしかないです。友人というか私の従兄弟の分析だとするならば、私と真逆でメディアなどを通した発信が得意でありTwitterなどの情報収集・発信は私のものより意味を成していると思います。なぜなら彼は、そこでの出会いやその中での友人がいることで、自分の存在意義が私と違いメディアの方が強いと考えるからです。授業であったようにあまりゼミなどで発表する際に多くの人は周りを伺い黙るというものは、特に日本人に多く、一人で何かぬというよりも仲間意識の中での一人の人間としてしか意識がないから周りを気にして発言や発信をしないのだと思います。

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私は、その場面ごとにその場の雰囲気や周りの人々がどのような性格をしているのかを考えて行動や発言、意見を述べるか述べないかを考えてしまうことがあります。これは、世論など現在世の中に多数存在する同調圧力に屈してしまうことがあるということです。ただ、すべて屈してしまうということでもなく、自分の中でいろんなことを感じたうえで意見は基本的に持っている方です。その中で、同調圧力に屈してしまう、意見は持っているのに述べることをためらってしまうのかを考えたときに自分では思っていないことでも、どこかでほかの人が出した意見にみんなすでに納得してしまっていることを感じたというのが1つ挙げられます。周りがすでに出ている意見に対して賛成していた場合には、その意見が正解なのではないかという考えが生まれてきてしまうがために、新たに意見を述べるのをためらってしまうのです。逆に、自分が意見を言いやすい空間というのもかんじることがあります。意見を出すごとに自らの意見ばかりではなく他者に対しての配慮が見受けられると意見を述べやすくなります。また、集団として多角的な視点で物事を考えている様子があると気兼ねなく意見を述べても否定されずに済むと感じ意見を述べやすくなります。

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現代では多彩なメディアが存在し、自分の表現を自由にできる時代ですが、なぜ我々は表現を抑制しがちなのかを考えたときに、私は社会から逸脱したくないという思いが影響しているのではないかと感じます。講義の中でも沈黙の螺旋という項目がありましたが、社会は逸脱した人間を孤立させようとするので、自分の表現が社会から逸脱してしまわないかという不安がつきまとうことになります。その影響で自分の表現を抑制しがちなのではないかと感じます。特にSNSなどは自分の表現を簡単にすることが出来るメディアではありますが、自分が表現したことが社会から逸脱していたときには、ほとんどの場合で炎上がつきまといます。炎上したくないという気持ちも私たちが表現を抑制してしまう要因の一つであると考えます。また、グループや仲間の人間に抑制されてしまうということもあると思います。仲間と意見が違った場合に周りに合わせてしまうであったり、仲間やグループの人間と自分だけ意見がちが違った場合、仲間から意見を抑制される、意見を潰されてしまうということもあると考えます。そういったことがあると理解してしまうと自分自身から意見を発信するということをやめてしまうこともあるのではないかと私は考えます。

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表現のメディアには様々なものがあります。それは文字であり、音、画像、動画など様々です。しかし私たちはこの数ある表現を抑えがちにあります。仮に私が友人と話しているとき、気を使うことはあまりありません。しかし、これが友人関係ではなく他人だった場合、表現を抑え、相手に気を使ってしまいます。そのため表現を抑えてしまうのではないかと私は考えました。また、友人同士話しているとき、自分も友人と話したい、という感情を抑えることにより表現も抑えてしまいます。例えば友人とご飯を食べに行くとき、なにを食べたいか話し合って決めます。その際、友人が何を食べたいのか、また自分が食べたいのを我慢して友人の意見を押し通そうという気持ちにもなります。このように自分の感情、表現を抑え、相手に喜んでもらうという考え方もあるように感じました。この表現メディアは現代社会ではとても便利なものです。広告や新聞、ラジオにテレビ、漫画や小説など今の現代社会にとても馴染んでいます。しかし、この表現メディアがあるからこそ私たち人間は表現を抑えてしまいがちだと考えました。私たち人間が表現を抑えることなく生活を送るのはとても難しいことですが、これからより良い表現メディアが出ればよいなと感じました。

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表現するためのメディアが多彩になり、私たちが普段の生活から他人が表現するものに触れ合う機会も多くなりました。それと同時にその発言に対して多数の他人がバッシングをしている場面を目にすることも多くなったように思います。私自身が初めてそのような表現するメディアに直接触れ合ったのは高校生になった時でした。友人がみんな始めるということでそれに乗じてツイッターのアプリをインストールしたのですが、最初は自分も含め他人の目など気にせずに自分の好き勝手なことをツイッター上に書き込んでいました。しかし、ちょうどそのころから芸能人による炎上が増えていて、他にも学校内でみんなから外れた過激な意見をツイートする人が陰で叩かれていたりと、メディアで自分の意見を自由に表現すると反対意見の人や自分をよく思わない人から叩かれるのではないかという恐怖がツイートする際によぎるようになりました。その後は過激なツイートをする人はほとんど見なくなりみんな当たり障りのないことだけを呟いているように思います。これは時代がInstagramに移り変わった時も同じで、初めはみんな毎日のように投稿したりストーリーを上げたりするのですが、「こういう投稿をする人はうざい」とか、「こういうストーリーを載せる奴はダサい」などの風潮が広まるにつれてみんな他人から逸脱しないように投稿する頻度も落ちていく印象があります。いずれにしても、表現の自由であるはずのメディアで表現を抑制する暗黙のルールのようなものが出来、他人から嫌われたくない人がそのルールに縛られていくことで表現の自由が抑制されてしまうのかなと思いました。

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私はメディアやSNSが多彩となる中で人の目に触れることが以前に増して多くなったと思います。それが1番の理由ではないかと個人的には感じます。ですが、自分の周りでは表現する人が少ないかと言えばそうではないようにも感じます。ほとんどの人はSNSを使用しているし、様々なメディアを閲覧しています。しかし、なぜ目にしないのかと考えると多くの人はアカウントを限定的な公開にしていることが多いからです。そのため決して表現していないわけではないと思います。そのため、多くの人の目に触れるのを怖がっていると感じます。親しい友達に対しての表現が多く、自分が今どう思っているのか、どのような状態なのかは多くの人に表現することはあまり見かけません。自分がSNSやメディアを利用して発言し、表現するなかで1番恐れていることは自分の表現を否定し、圧力をかける人の目に触れることだと思っています。今の世間には表現の自由は存在してはいますが、マイノリティとマジョリティがイーブンであるとは考えずらいです。そのため、自分と異なる考えの者やマジョリティな考え方をするものを抑えつけることが多く見受けられます。そして、下手な発言や対応に間違えなければ炎上することは無いと思います。しかし、多くの人はそれを恐れて表現することをやめてしまいます。それが今日における表現の抑制につながっているのではないかと感じました。

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私はかれこれ8年ほどネット・SNSに於いて発信したり、受信したりをしています。近年はTikTokの流行やニコ生主・YouTuberのメジャー化によってネットの世界に顔も実名も明かしてしまう人々が増えたように感じます。私はネット的には古い価値観を持っているので、顔を晒すなんてとんでもなく、個人情報となり得るものが外に出てしまわないようなユーザーネームやIDにしているように保守的な態度をとるようにしています。また、権利的に怪しい画像(他人の書いたイラストやアニメのキャプチャーなど)を極力使わないようにするなど、多方面に気を使うように動いています。これはここに至るまでにネットという広い世界で問題視され、槍玉に挙げられていたモノをよく見てきたからこそ育った感情だと思います。一度失敗を犯すとそれがデジタルタトゥーとしてネット上に残ってしまい、一生おもちゃとして扱われる、と言った状態を幾度となく見てきており、それを反面教師としてネットを生きてきたことが原因でしょう。実際、InstagramやTikTokが流行っており、顔を出して繋がることが普通となってきた現代のネット社会の中にも、このような旧来的なネットのイメージを持っている人々が多く、素直に全てを表現しないことを当たり前として捉えている人々がまだまだ多くいるのだと思います。表現が抑制されないようにするには、旧来的なネットのイメージを取り払わないといけないと感じました。

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 現在、誰しもが表現を抑制してしまう理由として私は、やはり沈黙のらせんが挙げられると思います。例えば全体公開のSNS上で『ジェンダー格差』に対する考えを投稿しようとします。しかし、いざ投稿しようとすると『友達に急に語ってイタイ奴だと思われるかも』や、『自分の考えを表現したいだけなのに、被害者面をしていると陰口を叩かれるかも』、または『私が深刻に考えすぎているだけで、みんなから考えを聞いたことはないし、この問題に対して何とも思っていないかも』という思いが頭の中をめぐり、想像上の意見風土の中で悩み結局は投稿をやめてしまいます。ここで投稿をやめてしまう、すなわち表現を取りやめることこそが沈黙のらせんだと思います。沈黙することで私も『考えを聞いたことのない友人』と同調することができ、イタイ奴だと思われずに済むからです。私自身、SNSは自分の意見を公開して良い場だと思っていて(相手に過激な不快感を与えない限り)、本当に仲の良い人に自分の考えや意見が伝われば良いと思っているので、Twitterで友人数人だけをフォローして意見公開をしています。そのようにすることで次に直接会った時に、『あのツイートのことなんだけど…』と会話が弾みます。このことからわかるのは、私たちが表現を抑制するのは見ず知らずの人に陰口を叩かれるぐらいだったら意見がない人間として生活していた方が良いと思っている人が多いということではないでしょうか。

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「なぜ私たちは表現を規制してしまうのか。」という話題に関して私と、オンライン上でのゲーム仲間のコミュニティの話をします。 そのコミュニティは大体10人前後程度の集まりで、Twitterでのざっくりとした繋がりから発展したコミュニティでした。近い話題近い考えの人が集まりやすいTwitterで集まったメンバーでしたから、最初は皆ある程度遠慮なしに発言し合ってもあまりそれを嫌がる素振りを見せる人はおらず、少なくとも見かけ上は誰もがその発言とそのような環境を受け入れておりました。 ですが、時が経つにつれそれぞれの考え方にも変化が現れ、以前より繊細になってしまった人よりあけっぴろげに発言する人が現れてしまいました。結果この2人のいざこざに巻き込まれてコミュニティの人数は半数以下になり、残ったメンバーも悲劇を繰り返したくないためかあまり積極的に活動しなくなってしまいました。 私はこのケースはわかりやすい「表現を規制しなかったが故の失敗」であり、残ったメンバーはこの失敗を直接思い知ったが故に極端な自主規制を行なってしまったものだと考えています。 ただ、元来周りを気にせず発言出来たが故に出来たコミュニティであったとも考えられるため、問題点が表限の規制であったならば同じような発生をしたのであれば同じようになってしまうのではないかと私は思っています。

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表現するためのメディアがこんなにも多彩になったのに、なぜ私たちは表現を抑制しがちになってしまったのは、空気を読まない奴は悪いという認知が広がってしまったことが悪いと思います。私は部活動をしているのですが、一年生の時に上級生にあることで不満を持っていました。その不満を伝えようかと迷っていたところ、同じ部活動に所属している友人に空気を読んだ方が良いと言われました。一度は、雰囲気に流されてしまい、不満を伝えなかったのですが、これはいけないと思い、不満を伝えました。先輩の反応は、意外なもので、素直に私の言い分を聞き、改善することができました。この時に思ったのが、先輩によほどのことがない限り物申すことはできないという空気があるということ。そしてそれに流されてしまう人が多いこと。これは現代の日本にも言えると思いました。自分では考えず、相手の意見に流されてしまう人が日本には多いと思います。なぜなら、今まで生きていた中でそのような状況を多く見たり、インターネットや友人との会話でも話題に上がったからです。私は、自分の意見とダメなものはダメとしっかりいうことを心がけたいと思います

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私が表現するためのメディアがこんなにも多彩なのに抑制してしまう理由はいくつかあります。その一つが法律です。なぜならその機械やメディアを使用することにより、人権を侵害してしまうことや誹謗中傷に追い込んでしまう可能性すらあり得るかもしれないのです。それが自分に非がなかったとしても相手側の捉え方では「この人は私に対して悪口を言っている」と勘違いを起こしてしまうこともあります。私はこのようなことからSNSを使用する上で言葉には無意識なのですが気をつけるようにしています。例えば普段の会話で友人にバイトを代わってほしいと伝えるときは素直に「代わってほしい」と伝えればいいのですが、ラインの時では「できればバイト代わってくれたら嬉しいな!」と語尾にはなるべく絵文字や!?などの記号を使用したり言葉には気をつけています。友人から伝わる表現の抑制はルールのようなものがみられるように感じます。例えば、私がラインを使用してグループラインでチャットすると誰かがすぐに反応してくれます。以前、ネットで見た記事なのですが、このようにラインをきっかけにいじめにつながって問題になるケースが多いようです。このようなことが起きないようにするために自分の身の回りの人たちは気を遣ってくれているのではないかと感じました。

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私たち日本人の傾向として孤立することを拒む傾向があります。これは講義でもあったように、「社会は逸脱した個人を孤立させるように脅かす。個人は孤立の恐怖を絶え間なく経験している。孤立の恐怖によって、個人はいつでも意見の風土を評価しようとする。この評価の結果は、公での場での行動、とくに意見の表明あるいは意見の沈黙に影響を与える。」という沈黙のらせんとされています。正直私も大学では一人でいることができません。誰かしら行動を共にし、話せる相手がいないと大学で「浮いた存在」というステレオタイプを持っていました。そういった仲間を確保するために好かれる必要があるのです。取りたくない授業を友達がとっているために取らざるをえなかったり、時間を守らない友達に対してなんの指摘もすることができず、仲間と同じ空気感を保たねばいけないことを自覚しています。つまり私たちは争うことを恐れているのです。良い意味でいえば、だれもが相手の気持ちを考えられるようになっているということだと思います。お互いに同じような人間性であるという類似性を意識しがちなところが日本人にあることから表現を抑制するのではないかと推察します。

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 私たちが表現を無意識的に抑制している理由は、多元的無知という状況になっているからだと思います。多元的無知とは特定の価値観や意見を自分では受け入れていないが、その他大勢の人たちは、自分とは違う考えを持っている人が多いなら、それに従ってしまう状況のことを指します。「空気を読む」ことで、ほかの人たちとは違う意見を持っていたとしても、周りの意見に同意したほうが得策という考えです。私たち日本人は基本的に争いを好まない傾向にあると思います。その結果、荒波を立てずに人と接することに徹しているのだと私は考えます。YouTubeではその動画を見ている人はその動画に対してコメントを打つことができます。コメントの中にはアンチコメントといわれる種類があり、主に動画に対して否定的なコメントをすることは基本的に悪だとされています。自分の考えをコメントしても周りと違うような考えは悪いものだといわれることが多いと思います。その結果、表現は動画に対して、同意するようなコメントが多くなるのだと考えます。しかし、InstagramとTwitterでは匿名のアカウントをいくつも持つことが容易なため、裏垢のほうでは過激な自己表現をしている人が多いと感じます。裏アカウントで話す場合においては自己表現は抑制される傾向にあるとは考えられないと思います。

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表現するためのメディアが多彩になったのに、なぜか私たちは表現を抑制しがちになってしまった原因として、人が少数派の意見を持った時に発言を控える傾向があるということが関係していると思うからです。 メディアを用いた例をあげるなら、TwitterやFacebookなどで有名人が間違った発言をしたとしても、それを見た大勢のSNSユーザーは正しい意見だと思い込みます。逆に有名人の意見を間違いだという少数のSNSユーザーは声が出しにくいという状況になってしまいます。このようなケースを沈黙のらせんと言います。では、何故少数派が声を出しにくい状態になってしまうかと言うと、大勢のSNSユーザーに叩かれて炎上してしまう可能性があるからです。さらに間違った意見だとしてもそれを記事にして再発信してしまうSNSユーザーも一定数いるという状況も少数派が発言しずらくなる理由の一つだと考えられます。 このような多彩なメディアに隠れる問題が世の中に存在する中で、最近だと日中のニュース番組でSNSの発言が取り上げられるケースが増えています。これにより普段SNSを使わない高齢者などにも拡散され、余計に少数派の正しい意見が言いずらくなるというケースもあります。 以上が表現するためのメディアが多彩になったのに、なぜか私たちは表現を抑制しがちになってしまった原因であると考えます。

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自分自身の意見を表現するためのメディアが多彩となった現在で、各々がその表現を抑制しがちにしてしまう理由は、世の中に溢れる「同調圧力」という見えない空気にあると思います。その例として、“情報報道番組”が挙げられます。近年の情報報道番組では、各ジャンルの専門家や芸能人がひとつの問題(ニュース)に対して自分の意見をぶつけ合う討論会のようなものが行われています。しかし、その討論会では自分の意見を自由に発言することをご法度としており、世の中の「同調圧力」によって、少数派の意見をした者は世間から批判を浴びせられ時には意見と全く関係ない人格否定までされ、最悪の場合には強制的に番組を降板させられるということもあります。これは普通の人間関係にも当てはめることができるのではないでしょうか。ある程度の強い信頼関係を築けている友人同士では話は別ですが、人間関係の輪が大きくなる(浅くなる)につれて、「同調圧力」という見えない空気はどんどん強くなっていき、少数派の意見をもつものはその輪から外されてしまう(無視される、陰口を言われる等)ことが多くあると思います。私自身も、信頼関係の輪が大きくなっていくにつれて、輪から外されないよう自身の意見の表現を抑制する「同調圧力」の空気に怯えることが少なくありません。そういった意味で、この多様な表現方法がある現代でも、私たちは自分自身の身を守るために抑制した表現をしているのではないのでしょうか。

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気軽に情報発信できる場を提供するSNSですが、それゆえにセキュリティリスクも高くなります。気軽に情報発信できるからといって、積極的に情報公開することも控えたほうがよいとおもいます。例えば、インスタグラムは写真を投稿する時、位置情報や一緒に写っている人のアカウントを載せたりすることが出来ます。私の友人には投稿する一枚の写真に、位置情報や過去投稿など紐づけて個人を特定することを好む人が一定数います。私はこの行為が非常に危険であると思います。たとえ、こうした人たちのターゲットにならなくとも、何気なく公開した写真に、予期せぬ個人情報や重要情報が含まれていることは少なくありません。実際、海外ではインターネットにアップした情報が原因でストーカー被害に遭うような事件も起こっています。なので、私は自分自身が写真を投稿する際は個人が特定されないよう心掛け、位置情報やアカウント情報は載せないように務めています。もし、友人の写真個人が特定できる情報が載っていた場合は、最近は投稿者にばれずに個人に纏わる情報を消す機能があるので、取り除くようにしています。表現する場所は多彩になりましたが、自分の身を守るためにも、情報公開時には、その情報で個人、あるいは関係する人が特定されないか、あるいは過去投稿と紐づけされた場合に特定される可能性がないか、慎重に判断する姿勢が重要であると思います。

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私は、自分自身について自己分析にするときに弱点ばかりをいってしまいます。反対に、友人や知人を分析する際は美化してしまうところがあります。ニュースなどをみていると、事実を少し大袈裟に報道したり、注目してもらつために持って見出し記事にしたりしているなとわたしは思います。しかし当事者の芸能人などはそのような記事やニュースをみて溜まったもんじゃないと思います。わたしがもし、自分の発言や出来事を事実よりも話を大きくし、盛って話をされたら怒りがこみあげてくると思います。でも記者や報道者はニュースや出来事に注目してもらうために、身を引くような記事をかかなくてはいけないと思い、そのようなことをするのだと私は思います。自分を自己分析すると、上記でも述べたように、否定的な部分ばかりでてきてしまいます。わたしは人に自分の思っていることを仲が良い友人であったとしてもはっきりと伝えることができません。相手に合わせてしまおうとすぐ思ってしまいます。わたしはこの自分の意見をうまく言えない性格を直したいと思っています。しかし、逆を返せば相手の気持ちを考えて行動しているので、相手を不快にさせることはしていないと思います。それは相手にしかわからないことですが。

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私自身、表現を抑制しがちな人間だと思います。プッシュ型のSNSアプリであるTwitterを利用しています。しかし、私から何かを発信するような行動はしていません。なぜつぶやかないのかというと、少し恥ずかしさを感じてしまうからです。誰が見ているかわからないものに自分の意見を述べてしまうことは危険な印象があります。もちろん、友人の中にはメディアでの表現をうまく活用している人もいます。最近ではInstagramを利用する人が増えていて、周りのみんながそれをインストールしています。そのアプリでは簡単に日常をフォロワーに見せることができ、他のアプリよりも比較的簡単に自己表現ができます。 一方、沈黙のらせん現象は身近に起きているような気がします。政治では現在自民党が多くの議席数を獲得しています。近年では若者の政治離れが問題視されています。というのも、選挙会場へ足を運び、自分の考えを投票しない人が多いのです。あるいは、メディアの情報だけを取り上げて、「とりあえず自民党を支持しよう」みたいな考えが多いのです。メディアではほとんど自民党の政策しか出てこないため、それに流されてしまう。まさに沈黙のらせんなのではないかと思います。自分の考えを強く持ち、意思表明する必要があるのだと私は感じています。

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何故私達は表現を抑制しがちなのか、私はこれは一昔前に流行ったバカッターが影響していると考えます。当時、SNSというものが世間的に重要視されていないと考えている人々が面白い動画として、人の迷惑になることをSNSにアップしたりしたことがニュースに取り上げられました。それによって炎上し、個人が特定されたり、損害賠償を負ったりという処罰を受けました。さらに近年のインターネット上の犯罪によって個人を特定されることが容易であることが世に知られてきていることも表現を抑制している理由の一つであると考えます。私もSNSで発信する方ではありません。自分が何をしているのか、何を考えているのかを他人に教えて何になるのかが分からないという理由があります。もうひとつはSNSに何かをアップすることが面倒であることです。反響があった時の通知ややり取りが面倒だと考えるためだと思います。また、特定されるようなものをアップする心配がないということもSNSをアップしないメリットであると思います。

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なぜ表現するためのメディアが多彩になったのに表現を抑制しがちになったのか。私はこの議題に対し表現するためのメディアが多彩になり気軽に表現できるからこそ表現することが抑制されたと考えています。例えば表現するためのメディアとして身近で利用しているインターネットの掲示板やTwitterなどが挙げられます。これらのツールは自身の考えを簡単に表現できる一方で、少数意見には多数意見が群がりいわゆる炎上が起こってしまいます。この現象は社会を統合するための同調圧力としての世論の縮図ではないかと考えています。この議題を私自身において考えてみます。初めに思い浮かぶのはゼミ活動のZOOMでの議論の場です。本来ならば対面授業のためその場の雰囲気など伝わるため、仮に自分意見が少数意見であった場合でも積極的に表現することができます。しかし、ZOOMというインターネット上でのやり取りの場合その場の雰囲気が伝わりにくいため、少数意見を述べた場合ほかのゼミ生はどのように感じるのだろうか、また少数意見のため多数意見の人がひょっとしたら自分の意見を言えなくなってしまい議論が進まなくなってしまうのではないかなど様々なことを考えてしまいます。これも沈黙のらせん理論ではないかと考えました。  私は以上の2点より、表現するメディアが増えた一方で例として挙げたTwitterやZOOMなどメディアが増えたからことによる弊害により表現が抑制されてしまっていると考えました。

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昨今、自分の意見を表明するメディアといいますと、Twitterや Instagramがそれにあたるかと思います。自分の意見に抑制をしてしまうのは、炎上を起こす可能性が存在するからだと感じます。特にTwitterは、誰にも見られないと思いツイートしたことが、結果として大多数の人に見られてしまうケースもありえます。ツイートを消したとしても、スクリーンショットを撮られてしまって逃げられなくなることもあります。また、過激な意見は多くの友人が見ているアカウントでは抑制してしまうでしょう。友人には、色々な考え、歴史を持つ人がおり、そこを考慮すると自分の中に絶対な考えがあっても気に触るようなことは言えないのが日本人であると思います。なので、炎上や友人関係から見ても、プライベートアカウントではなく、いわゆる裏垢のようにただ意見を言うだけのアカウントで発言をすれば、抑制の加減を減らせるのではないかと感じます。また、そこまで大きい規模でなくても、いいね機能により、なるべくたくさんのいいねを貰いたいという感情から、自分本来の意見を抑制して、誰しもに共感してもらえる意見を言ってしまうこともあるのではないでしょうか。

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表現するためのメディアがこんなにも多彩になったのに、なぜ私たちは表現を抑制しがちなのかについて、今日の講義内容を参考にして、私自身と友人たちについて自己分析してみた結果、講義内で説明のあった沈黙の螺旋というところの内容の周りとは違う意見や考えを持っていたり、発言したりすると周りから孤立してしまう場合があり、社会や講義など大勢の人がいるコミュニティーでは人は様々な意見を持っていても自分の意見や考えが少数派である可能性を考え、周りが発言するのを待つなどして、周りの発言を確認することがあります。このように自分の意見や考えが少数派であり、周りとは意見や考えが違った場合に自分がまわりから孤立することを恐れてしまっていることが、メディアが多彩になったのにもかかわらず、私たちが表現を抑制してしまう1番の理由であると感じました。 また、メディアの報道などによる洗脳によって実際は少数派でない意見も少数派であるかのように感じてしまう場合もあり、それによっても自分の意見や考えは少数派であると洗脳されてしまい、自分たちが表現を抑制してしまうことにもつながります。 こうした周りに意見を合わせたり、周りから孤立することを恐れたりするのは、小学校の頃の周りに合わせるようにするという教育などの日本特有の現象であると感じました。

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わたし自身の話からすると、表現を最大限にすることは体力を使うなと感じることがあります。表現を抑制せずに出すと、する側としても受け取る側としても考えることが増えるように思います。表現をされすぎることから言い表していない気持ちや事柄を読み取ってしまったり、知りたくないことを知ってしまったりと悲しい気持ちになることもあります。表現を抑制することによって、本心を隠すことができるのではないかなと思っています。それに加えて、表現の自由を与えられながらも、表現を制限されている部分もたくさんあると思います。法律や規制ではないけど、現代社会ではハラスメントなどの受け取る側の考えようで変わってくる制限があります。これに引っかからないようにと考えると、表現を抑制してしまうのではないかなと思います。メディアの中だと、表現を自由にすると教育に不適切であったり、犯罪につながってしまったりということもあります。アメリカでの陰謀論などが最近話題になっています。これを各メディアで自由に表現し、放出することで、周りとのコミュニケーションが少ない人たちはまた新たに表現するという連鎖が起きてしまいあまりよろしくないとわたしは考えます。私や私の周りのはなしで、なぜ表現を抑制するのかということについてまとめると、表現を抑制することによって人間関係を保っているのではないかと思いました。

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メディアの表現が多彩であることは特定の人物ではなく国民全員に向けて発信していることから何も恐れずに表現をしているのではないかと私は考えます。この恐れないという気持ちが私と友達の中で分析をしてみると思想の自由があるもののなにも考えずに思ったことをそのまま口にしている人は数少ないと感じます。どこかで自分の発想から相手への的確な伝わり方、失礼ではない常識的な言葉を選んでいる。例えば友達が自分と全く違う考えを持っていて、そのことに対して全否定をするのではなく若干ではあるが肯定の気持ちが芽生えます。この若干のずれが私たち友達の中では大事であって自己表現全面に出す関係が友達という考えでは私はありません。気を使えてこそ親しくできると私は考えます。すなわみ感情を害することを無意識に気を使っています。この日本の文化、孤独を大体の人が嫌う文化を私も含め、認めて生活をしています。多彩な表現とは裏腹に友達間での孤独を拒んでいると感じます。 この点からメディアと友達間での表現は違いが生まれます。確かに人は大体孤立を拒みます。1人も友達がいない人は少ないですし、人と繋がるから色々な情報や楽しみが生まれます。私は謙虚ということが大事だと考えます。

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日本人は感情を表現するのが苦手で表に出さないのが特徴です。苦手というより国民性とも言えるでしょう。よくネット上では過激なコメントを書いているのにいざ現実世界だと何も発せずおとなしく周りに合わせているものだったりします。私も家の中でのキャラクターと家を出た時とではまるで違います。友人も自分とだけ関わっている時と学校内でクラスメートが大勢いる時の態度は全く違うものです。普段の自分のキャラクター、感情などを大勢の中で晒すことに対して必然的に抵抗を感じているものなのだと思います。もしこんな姿を見られたら周りから変な目で見られないかなとか、少しでもよく見られたいなどの心理から本来の姿ではない偽物の自分を召喚することによってその場をしのいでいるのではないでしょうか?よくタレントや俳優、有名人などはそれぞれキャラクターが決まっており特にアイドルは個性というものが本人の人気を高めるため、生き残っていくための武器となるものです。ぶりっ子キャラやお姉さんキャラなど多数ですが大体はテレビ上で受けるための演技がほとんどです。そんな中本来の自分の姿をそのままテレビで写している、つまりキャラを作っていないメンバーはどこか受けがよく、人気も高い傾向にあるように感じます。自分を表現するのは難しいものです。

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表現を抑制している理由として、大きなものは周りと違うんじゃないかという恐怖から生まれる点です。実はそれを思っているのは自分だけであって、もしそれを言ってしまったら、的外れな意見だったとしたら、周りの他の人から反対意見をもらい、自分だけ違うという状況を作り出さないようにするためです。逆に、それらに賛同している人が多くいたとしても、それを批判する人もいて、自分もそう思っていたけど、他の批判があるから、自分は本当に正しいことを言おうとしているのかがわからないことで、他の人とは違う意見と考えすぎて表現を抑制してしまっているのかもしれません。また、すごい意見を思いついたと思って発言しようとする前に、事前にそういう考えが他の人から発信されていないかということも確認してしまうのだと思います。そうすると、そう考えていた人もいて、やっぱりやめようとか、なかったらその意見は他の人でも出ないのだから、そこまでいかないのだとか、そういった思考になるのかと思いました。他の人が出しているものだと、それのパクリであるとか冷やかされるのが怖いという感情から話せなくなるのだと思われます。また、他の意見がない時は、自分以外の人がいないため、それに対する批判が怖いということにつながってしまうと考えられます。

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表現が抑制されがちになっていることについて、まず私が思うことは不特定多数の人間に見られやすくなってしまった点にあると考えます。大学入学当時、軽く話したり関係を構築する上でインスタグラムをフォローしあったりしていました。大学一年が終わる頃には50人前後の新たなフォロワーがいました。私は友達と遊んだ投稿をしようとした時に、やっぱりやめようと考えてしまいました。そこには関係の薄い人たちがこれを見てどう思うか、考えてしまった背景があります。要するに繋がりやすくなってしまったからプライベートすぎる投稿を関係が薄い人が見る事が多くなっており、安易に自己を表現するような投稿がしずらくなってるのでは?と考えました。誹謗中傷とまでは行きませんが、その投稿を見てよく思わない人というのは関係が薄く、よく知らない人たちであり、投稿する際に1番気を使う人達であると思います。勿論自分の周りの人の中にはSNSは自己満足だから他者を気にせず投稿を行うという人もいます。私はそれこそが正しい姿だとも思いますが、その方ほど他者を気にせず投稿はできませんでした。なので別にアカウントを作り、自己を表現できる人達だけをフォローし、環境を作りました。私は自己表現が出来なくなる傾向がなぜ見られるのかについては、プライベートとパブリックが混在してしまっているのが現在のSNSなどだと捉えています。自分をある程度知ってもらう名刺がわりのようなフォローのしあい、そしてホームビデオの様な内容、この混在こそが、自己を表現する際にストッパーとして働いてしまうから、自己表現に苦しんでしまうのではないかと分析しました。

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私はメディアが多彩になったからこそ批判を恐れるような傾向があるから、意見を抑制しがちであるとかんがえます。現在ではどこのメディアで発言するにしろ、不特定多数の人の目に入ることになります。情報源が多数になり、それぞれ持っている意見も様々な角度です。一つの物事にコメントする、批判するのはもちろん、そのコメントにコメントすることも行われます。多くの人と一致する意見は正しいと思われ、間違いだと思われるコメントは批判されます。YouTubeのコメント欄やTikTokのコメント欄で意見を批判されている例をよく見ます。一つの意見に対し、大勢の反対派の意見がよってたかり、それを面白がっているようにも見えます。それなりに白黒はっきりしている強い主張を発信することは、リスクを伴うことだと感じます。いつ、誰に叩かれるかわかりません。不特定多数の見えない相手だからこそ、リスクが伴うため意見を抑制してしまいます。叩かれるぐらいなら発言しない方がマシと思います。それか、叩かれる可能性の低い同調した意見か当たり障りのない意見を言うようになります。メディアが多彩になったことで、受け取れる情報の厚みは増えたように感じます。一人一人が自分の意見を持っていないわけではありません。しかし、それを発信し、叩かれるリスクを考えると発言する事を抑制してしまいがちなのではないでしょうか。私もたまに意見を発信したくなります。そこで文まで打ち込み、思いとどまり満足して、その意見を消します。批判されたら、叩かれたらどうしよう、他人と違う意見だったら叩かれる、この意見で誰かが傷つかないのかなど様々考え、思いとどまることがよくあります。 自分自身では、他人との意見の不一致で叩かれることを1番恐れているように感じます。

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私は自己表現を抑制しているつもりはありませんが、表現の中に含まれるトゲのようなものはできるだけ排除するように心がけています。表現するためのメディアが多彩になったということは、良いことも悪いことも含めた全てを自分の裁量で表現でき、さらに世界中に発信できるようになったということになります。私も含めた周りの人間のほとんどは倫理観観や一般的なリテラシーを持ち合わせており、その中の共通観念として「一般からの逸脱はダサい・カッコ悪い」というものがあります。もちろん一般的に悪いとされていることをしてはいけないのは当然なのですが、自分にとって良いと思ったことであっても一般的な視点からずれていると馬鹿にされたり叩かれる原因になることが多いためだと考えています。これは私たち若者だけでなく日本人に共通したことだと思います。よく教育現場の話題の中で引き合いに出される話ではありますが、日本では小さいころから一般社会になじむように教育されるため、自分を表現することが良しとされない場合が多いと聞きます。これは私も同感で、講義内でも軽く触れられたように若者の間でというより社会全体で空気を読むことが美徳とされている雰囲気を強く感じます。たとえ周りが違って自分が正しいと感じたことでも外に発信せず自分の中だけに閉じ込めておくことが日本人らしいことであるということです。私がその風潮が大嫌いなため、最初に述べた通り自己表現を抑制しないように言葉のトゲだけを取り除いた表現方法をとるようにしています。個性や自己表現は世間から理解されないのが当然と考え、そのうえで周りから批判されないように腰を低く保つ。ただ、これは私だけに限った話でなく今を生きる人々の多くに当てはまっていると感じています。表現を意図的に抑制しているつもりはなく、波を立てることなく人生を生きるための術を肌感覚でみんなが掴んでいる証拠なのかもしれません。

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私たち現代人は、現実に加えてインターネットの世界でも集団生活をするようになりました。私も実際SNSでは趣味専用と学校専用のアカウントを別々で作っており、それぞれ同じジャンルが好きな人たちと、同じ学校の先輩や後輩、同期たちをフォローして繋がって情報収集や発信をしています。そんなほとんど四六時中集団生活の場にいるようになると、やはり人の目を気にしがちになってしまいます。どちらのアカウントについても言えることですが、連日暗いニュースが必ずひとつはある中、それらについて言及する人はほとんどいません。友人や知り合い、そして私も基本的に楽しいことしか発信しません。メディア自体が信用ならないのと、フェイクから更なるフェイクが生まれたりと情報精査をすること自体に疲れてしまっているのではないでしょうか。更に賛否両論な事柄に下手に触れると、どこからともなく違う思想を持つ人に直接攻撃されることもあります。人間は自らに面倒事が降りかかるのを嫌いますから、自衛のためにもあくまで表現せず心の内に留めておくのです。これもよく言われていることではありますが、インターネットへの書き込みは消しても残ってしまいます。鍵機能もありますが、フォロワーが一人でもいたらそこから漏洩する可能性はあります。表現するメディアが多彩になったからこそ、どこにあるか分からない穴が多すぎるため、下手に意見することが出来ないのだと思います。

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私は人の良い所より悪い所がよく目につく悪い癖があり、特によくも知らない近くにいる人をディスっています。ただ、私がいうのも違うと思いますが、世界全体がその流れがあると思います。人が他人のことを悪くいう根本的な要因は自分と違う世界に生き、相容れない、理解できない人種を差別、批判することだと私は考えます。世の中がどんどん表現規制をかけていくのはインターネットによってこれまで隠れていた世界が表に現れていくようになったからではないだろうか。インターネット普及までは、自分の生きる世界以外に触れることはほとんど無いし、興味もないだろう。さらに、隠れた世界に触れる前にその世界のコミュニティーの人間が足を踏み入れることを阻むだろう。しかしインターネットは誰でも簡単にアクセスできるという本来利点であるはずのものが、寧ろ人を選ばず、他人のコミュニティーに土足で踏み込んでいく行為を助長させることを招いた。GOOGLEはYOUTUBEのサムネイルに肌色の割合が多いと「性的なコンテンツ」と認定され、削除が行われるという仕組みが存在する。しかし実際はそれが表現の自由を抑制する行為であり、仮に実際に性的なコンテンツであったとしても、それを発信する相手、方向さえしっかりと見極めることさえしていれば何の問題ないだろう。これは現代の「ニュースピーク」と言えるだろう。

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私は表現するためのメディアがこんなに多彩になったのに、私たちが表現を抑制してしまう理由として、周りの評価などが挙げられると考えます。SNSを駆使して自由に表現できるのが現在できることです。しかしSNSでは、絶えず誹謗中傷があります。例えば自分が良いと思って挙げた動画でも、それをみた誰かにとって不快で心ないコメントをされてしまったらそれに乗っかって心ないコメントをする人が沢山出てきて炎上のように誹謗中傷が瞬く間に増えてしまいます。Twitterなどの呟きを投稿する場合でも同じです。今、SNSをよく利用している人たちは最低限それらを理解しているから、いくら表現の幅が広くて自由であっても、自分で制限しているのかなと考えました。 私もSNSで自分の思ったことなどを投稿しますが、投稿する前にいいすぎてないかなど少しは確認するようにしています。SNSは本当に誰でも誹謗中傷の対象者になってしまうことがあるので、ただ思ったことを言ってしまうのは危険だなと感じるからです。 TwitterやInstagramなど、SNSは表現する選択肢がたくさんありますが、全てが自由で好きなようにできるともかぎらないので、社会に順応して表現を抑制せざるを得ないのかなと思いました。

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私の自己分析をします。まず良いところから分析していきたいと思います。まずは、器用なところです。何をやるにしても大体のことはそれなりにできます。スポーツはもちろん最近では、料理やダンス、ピアノにも手を出しています。ただ、飽き性なのでずっとその事を続けることができません。他の良いところとしては、集中力に長けていることです。何かを始めたら、それがしっかりと終わるまではやりきります。これは、いろいろな面で言えて、例えばパズルです。真っ白のパズルがあって、結構周りの人は諦めてしまう人が多いんですけど、日にちはかかりましたがしっかりの完成させました。なかなかできることではないんじゃないかなと思います。逆に、悪い部分でいうなら短気です。最近だいぶ丸くなりましたが、それでも短気です。でもそれだけ熱い男なんです。また、お金使いが荒いです。お金はあるだけ使うタイプなんで貯金なんてものはありません。洋服や彼女に使い切ります。学生のうちは今のままでいいのかななんて思っています。私の周りにいる友人は気の会う友人ばかりです。気の会うというのは、単に性格だけではなく洋服だったり趣味だったりいろいろなパターンの友人がいます。たくさんの友人がいる中で、もちろん合わないなと思う友人もいます。うわべの付き合いをしている人ももちろんいます。ただ、そういった関係も時にはだいじなのかなと思います。

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私は、講義で取り上げられていた沈黙のらせんの箇所が、メディアが多彩になったにもかかわらず、表現を抑制しがちになっている大きな理由ではないかと思います。私たち日本人は、孤立を恐れて、少数派になることを拒み、同調圧力が強い傾向があるのではないかと思います。私も、サークルなどで、何か意見を出すときにまわりの様子を見てから発言したり、自分の考えに近い人間を見つけてから提案をすることがたまにあります。多数派がいつも正しいとは限らないのに、数の圧力に自分が耐えられず怯んでしまうのだと思います。

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